▲UMIN二十周年記念誌 TOP へ戻る

UMIN事始め

国際医療福祉大学大学院長
元東京大学医学部附属病院中央医療情報部教授
開原 成允


1. 教育と研究の基盤
 一昔前までは、研究は少人数のチームで行うことが多かったが、研究の規模は年々大きくなり、最近では、研究のための基盤、例えば、知識を集積したデータベースやコミュニケーションの手段などが必須のものとなってきた。
 しかし、それでは誰がこれを作るのかということについては、学術研究者の間でも必ずしもコンセンサスはない。過去にはボランティア精神をもった人たちの情熱に支えられて偶発的に作られたものもある。例えば、医学中央雑誌は、過去の日本の医学文献を集積した貴重なデータベースであるが、これは尼子富士郎氏の個人的な努力によって昭和の初期に創始されたものである。
 大学の研究者は、個人的な業績をあげることが、通常はもっとも重要な課題であるから、学術研究や教育の基盤作りには、必ずしも熱心でなかった。その中にあって、東京大学が、医療界全体のために自ら創始し、自ら運営している「大学病院医療情報ネットワーク、以下「UMIN」という。」は、他にあまり例をみないユニークな存在である。
 ここまで大きくなったシステムを一つの大学の一部門が運営していくことが適当なのかどうかについては、その利害得失を含め将来改めて議論をする機会が来るかもしれないが、その時のためにも、この大学病院医療情報ネットワーク(UMIN)がどのように創始され、どのように運営されてきたかを思い起こしておくことが必要であると思う。その意味で、今回の20周年を機に私が知っていることを記す機会を与えられたことを嬉しく思う。


2. 大学病院医療情報ネットワーク(UMIN)の草創期
 医療情報ネットワーク(UMIN)がどのように始まったかについては、10周年の記念誌にも書いたが、この記念誌は必ずしも入手しやすいものではないので、多少の重複を許していただき、ここに改めて記しておきたい。

2.1. ネットワークの構想
 私が最初に医療情報ネットワークの構想を持ったのは1980年代の始めであるが、大型計算機センターのネットワークに触発されたことが大きい。しかし、この頃は、標準的なコンピュータ接続のプロトコールは存在せず、大型計算機センターが共同で開発した「N1プロトコール」と呼ばれる方式があるのみであった。また、ハードウェアとしてのネットワークも、学術情報センターが大学間をつなぐ学術情報ネットワークを整備されつつあったが、商用のネットワークは十分整備されていなかった。
 その頃、国立大学病院にはコンピュータ導入の予算が次々と配分されて、病院情報システムが各大学病院に稼動しはじめていた。当時の、病院情報システムは、病院の事務的な作業を行うことが優先されていて、病院情報システムといっても、医療や教育研究へはほとんど利用されていなかった。
 大学病院のコンピュータシステムであるから、医療や、研究・教育へも利用するべきであると私は思っていたが、そのためには、教育研究にも価値があるシステムにしなければならない。それには、大学病院のコンピュータを繋いで大学間で情報が交換できるようにすれば、その間で最新の医学情報が迅速に交換できるようになり、医学の進歩にとって測りしれない利益があるはずである。
 ただ、医療データを扱う難しさは、セキュリティにある。大学病院のコンピュータの中には患者情報があるから、これがネットワーク上に流出することは許されない。私は、大型計算機センターの浅野正一郎助教授(当時)を訪ね、学術情報システムで整備されたネットワークの幹線を使って病院のコンピュータを繋ぐことができるか、その際、病院のデータが他のデータと混ざらないようにしてセキュリティを確保することができるかを尋ねた。浅野助教授の意見は、それには、学術情報ネットワークの中に閉域網を定義し、その中を医療データが流れるようにすればよいというものであった。
 これに勇気を得て、私は、文部省に病院用大型計算機のネットワークを作る概算要求をすることにした。幸い文部省の理解を得て1986年(昭和61年度)には調査費が認められた。このため、その当時医療情報部ができていたところの教官を招いて調査委員会を作り、1987年(昭和62年)1月13日に第一回の「国立大学医療情報ネットワーク調査委員会」が開催された。

2.2. 第1期のシステム N1接続
 次の年(昭和63年度)には、センターコンピュータの設置と接続のための費用がはじめて認められた。このため、センターコンピュータの調達がはじまり、1988年(昭和63年)7月に、日立製作所のHITAC M-640/30 がセンターコンピュータとして設置されることになった。
 ここに大学医療情報ネットワークが正式に発足をみることになったので、文部省と協議の上、9月には病院長会議常置委員長名で国立大学病院長にあてて「ネットワークの設置について」という文書が発送された。
 発足をみたと言っても、最初は二つの大学病院のコンピュータを接続するだけでも大変な作業であった。まず、病院のコンピュータを相互に接続すると利点があるとは言っても、それは「たてまえ」であって、正直なところ最初は接続してもあまり利益はなかった。大型計算機センターや学術情報センターとは接続ができていたから、大型計算機センターを研究上の目的で使っている人には確かに利点であったが、病院ではそのような人はわずかであった。このため、このシステムでMEDLINEが利用できるようにして、このMEDLINEが病棟からでも外来からでも使える、また電子メールが使えるということを売り物にして接続を勧誘した。文部省も非常に努力して、毎年3-5大学程度の接続のための予算を組んだので、接続大学病院は名目的には次第に増加していった。
 最初の頃は、大橋靖雄助教授が、平成2年からは新設された新しいポストに着任した櫻井恒太郎助教授が、日本中を旅行してネットワークの必要性を説いて歩いた。また、このころ、病院内の各部門ごとに小委員会を設けることになり、「ネットワーク運営委員会」の下に薬剤、検査、看護などの小委員会が発足し、少しずつ医学・医療における利用が進んだ。

2.3. インターネットプロトコールへの切り替え
 コンピュータは4-5年たつと更新の時期を迎える。UMINのセンターコンピュータも1993年(平成5年)にこの更新の時期を迎えることになった。このころから、コンピュータネットワークの考え方は少しずつ変化していた。その変化とは、米国を中心としてインターネットが普及しはじめたことである。このため、ネットワークとしてインターネットを採用するか否かは大変重大な問題であった。具体的には、接続のプロトコールとして「N1」を維持するのか、インターネットのプロトコールであるTCP/IPに切り替えるのかという問題である。
 丁度その頃、私は長年親しくしている米国の国立医学図書館長のリンドバーグ(D.A.B.Lindberg)を米国に訪ねる機会があった。リンドバーグは「Whole Internet」(Ed krol, Whole Internet, O’Reilly & Associates Inc. 1992)という本を読むことを私に勧め、これからの時代はインターネットが必ず普及するという意見を述べた。私は、色々な人の意見を求めたが、参考になったのは若い研究者の意見であった。若い研究者は既にインターネットの普及する時代を予見しており、UMINの考え方を変えた方がよいという意見であった。私は、これらの意見を入れて、大型コンピュータ間の接続という考え方を捨てインターネットプロトコールのネットワークに各大学病院のコンピュータが接続するという形態にする決心をした。
 1993年12月にはじめてIP接続によるUMINが稼動した。インターネットに接続できるようにしてみると、世界中の情報資源が瞬時にして入手できることがわかった。このころはまだ World Wide Web は生まれたばかりでその存在は本では知ることができたが、日本では入手できず、情報資源はもっぱら「GOPHER」と呼ばれるシステムで提供されていた。これは、画像は扱いにくく、文字が主なシステムであったが、それでも世界中の医学情報が手に入れられることで、UMINの価値は一挙に高まった。インターネットメールを利用できるようになったことも大きな利点で、各大学に一連のアドレスを割り振ったメールシステムを作ってサービスを開始した。
 1994年(平成6年)の5月には、はじめてUMINのWorld Wide Webによるホームページが開設された。最初はGopherによっていた情報サービスも、Webが出現すると瞬時のうちにWWWが普及しはじめた。一度使い始めて見るとその使い勝手のよさはこれまでのシステムとは比べ物にならなかったから、既にIP接続した大学病院への普及は急速に進んだ。
 この年のもう一つ特筆すべきことは、この年ですべての国立大学病院に接続予算が認められ、全国立大学病院がネットワークで結ばれたことである。1995年(平成7年)3月に実際の接続が終了したが、新しく接続するところはIP接続で接続していったから、この時点で41大学病院中の19大学病院がIP接続となっていた。
 この年、櫻井助教授の後任に新進気鋭の木内貴弘講師を迎えた。インターネットへの切り替えは、VPNが普及したので、接続をN1からTCP/IPに変更しても、これまでの閉域網上の業務も十分続けていけることになった。
 また、インターネットになって、データは分散して持たれるようになったが、医療界で共通に使うソフトウェアの開発と運用はそれほど容易ではない。こうしたシステムの開発と運用が次第にUMIN上で行われるようになり、これが今日のUMINの隆盛を招いたといえる。


3. UMINはなぜ大学で生まれたのか?
 幸い、UMINは、日本の代表的な医療情報のネットワークとして自他ともに許すまでになった。初期の暗中模索の時代を過ごしてきたものとしては、その方向性が正しかったことが証明されたようで大変嬉しい限りである。
 しかし、時代も技術も変化するから、将来、UMINの改革を考えなければならない時が訪れるかもしれない。その時のために、UMINがなぜ大学で生まれ、またその後の運用で大学であるが故に可能になったことを改めて考えておきたい。
 UMINがここまで発展したのは、もちろん、文部省の予算、東京大学関係者の理解、UMIN関係者の努力があったからに他ならない。この一つが欠けてもUMINは存在しなかった。しかし、UMINの誕生と発展の要因をもう少し分析してみる必要がある。

3.1. 最先端の技術を得られる環境
 UMINにとって幸いであったのは、UMINが誕生した頃には、学内に「大型コンピュータセンター」という組織があり、そこで当時最先端のコンピュータネットワークの研究が行われていたことである。同じ構内であったから、委員会などでもここの研究者と親しくなっていたから、さまざまな技術的問題を気軽に相談することができた。結果的にはN1プロトコールは残らなかったが、コンピュータネットワークの機能に対する理解は深まった。
 今でこそ、コンピュータネットワークの知識や技術は通常の技術になったが、UMINが作られた当時は、一般社会では手に入りにくいものであった。また、学術情報ネットワークというネットワークが大学関係者の努力で作られていたことも幸いした。このような大学の環境があったからこそUMINは実現できた。
 また、大学の国際交流が盛んであったことも幸いした。米国の国立医学図書館との交流の中で、米国のインターネットの普及状況を目の当たりにすることもできたし、アドバイスも受けられた。
 このような環境は、総合大学である東京大学であったから得られたものである。この環境があったからこそUMINは実現できた。その意味では、大学でUMINが生まれたことは必然であった。

3.2. モラルの高い研究マインドをもった人たち
 大学にあることの大きな利点は、これを運営する人たちがモラルの高い研究マインドを持った人たちである点である。大学の人間は、常に新しい可能性を考えている。新しい技術を用いて新しいシステムを作り、また、運営方法についても新しい枠組みを考える。
 UMINのようなシステムは、可能性は無限であるから、常に新たなものに挑戦し続けている必要がある。この点でも、大学の人的環境はUMINに理想的であった。

3.3. 中央医療情報部の存在
 これはUMINの誕生時のことであるが、UMINを新規事業として始めることのできた要因は、中央医療情報部という当時の組織の性格が関係している。文部省は、各国立大学病院に医療情報部を設置することにして、年々整備を進めていったが、その中で東大病院の組織だけは、「中央医療情報部」という名称になっていた。なぜ、「中央」となっているかについては、公式の文書があるのか今となっては定かではないが、少なくとも私が聞いた範囲では、大学病院の情報部門は相互の協力体制が必要であるから、東大がそれを中心になって進めてほしいという意向があったように思う。その具体例が国立大学病院の統計処理で、この業務は今でもUMINの上で稼動している。
 このような役割があったので、私は、中央医療情報部が東京大学を越えた国立大学病院全体に対する貢献をしなければならないと思い、それがUMINの発想にもなった。また、このような「たてまえ」があったから概算要求もしやすかった。
 すべての大学が平等であるという大学行政の考え方からすれば、東京大学だけを特別扱いはできにくかったと思うが、文部省は名前によってそっと背中を押してくれたように思う。小さなネーミングの問題であるが、ちょっとした違いが人々の意識を変えるものである。

3.4. 利用者の問題
 UMINの利用が無料であったことも、UMINを普及させた大きな要因である。これは、東京大学が国立大学であったことが幸いしている。当時の国立大学は課金することが不可能でないにしても非常に難しく、また、開発の趣旨から考えても、課金すべきものとは考えられなかった。
 ただ、それと引き換えに、利用者の方の制限はあった。国立大学の予算によって作られたものであるから、国立大学の人しか使ってはならないというのが最初の考え方であった。しかし、医学研究に、国立大学という壁はなく、医療界の人は皆必要があれば協力する。UMINの機能が増加していくにつれて、国立大学だけの人しか使えないのではまったく意味がない機能も多く出てきた。そのため、最初は私立大学に広げることを認めてもらい、さらには、システムによっては、医学会関係者ならば利用を認めるというように次第に利用者を拡大していった。現在は、何らかの医学関係の学会に加盟しているものであれば利用できることになっているから、医療界の中で使っている限りは、ほとんど制限を感じることはない。これは、文部科学省の寛大さによるもので心から感謝したい。

3.5. 中立性
 UMINが大学発であるために、その中立性に対して疑問をはさまれることはまったくなかった。これも大学が運用することの利点である。システムは機能を提供するだけとはいうものの、そのシステムを意図的に本来の目的とは異なった方向に誘導することも可能である。このようなことがあっては、せっかくのシステムが利用されなくなるが、その点でもUMINは利用者から信頼されてきたのは、大変嬉しいことである。

3.6. 費用負担の問題
 最近、国立大学が大学法人になったために、UMINの運営がどうなっていくかやや心配である。大学法人になったことを機会に、費用負担のあり方などを再検討することが必要になるのかもしれない。
 米国をみるとMEDLINEのように国が膨大な費用をかけて開発運営している文献検索システムを、米国のみならず全世界の人に無料で利用させている例などもある。このような基幹のシステムは、国の予算で行うという考え方であろうが、MEDLINEは、今や全世界の医学研究にとって不可欠なものになっているから、米国の国際戦略を感じさせるものがある。
 UMINの場合には、利用はあくまでも無料とするべきであろうが、国家予算に加えてさまざまな医療関係団体が例えわずかでも資金を拠出して運営を支援することができれば理想的であると私は思っている。
 ただ、その場合も、大学がUMINを運営することの利点をよく理解し、運営は大学が行うのがいいように思う。その理由は、今後もUMINは常に最先端の技術を吸収しつつ発展していかなければならないからである。そのためには多くの研究者のいる東京大学が今後も最適の環境を提供し続けるであろう。
 さらに、UMINの運営は、大学であるが故に一般社会から見れば非常に少ない運営費で運用できている。試算したわけではないが、おそらく同じ規模のシステムを企業が運用したとしたら10倍以上の運営費がかかるであろう。UMINが安い運営費で運営できているのは、担当者たちの献身的な努力があるからであるが、それが可能であるのも、大学という環境があるからである。


4. おわりに
 以上、UMIN草創期のことを記すと共に、UMINの今後の運営について、UMINの創始者としてぜひ記憶にとどめておいてほしいことを記した。
 今後も、UMINは常に変化してこそ価値がある。しかし、UMINの改革にあたっては、ぜひこれまでのことも参考にしつつその将来を考えてほしい。