関係者より


UMINプロジェクトの想い出

国立がんセンター研究所がん情報研究部

石川 ベンジャミン 光一

私がUMINのお手伝いをしていたのは、東大病院の中央医療情報部に博士課程の大学院生として在籍していた時期で、東大病院では病院情報システムとUMINという2つの大きなシステムの更新プロジェクトが進行中で、大変活気に満ちた環境となっていました。
この時のUMINの更新は、メインフレーム・N-1接続のシステムからUNIXワークステーション・TCP/IP接続のUMIN2に切り替えるもので、「サーバー資源のダウンサイジング」と「インターネット標準への対応」をキーワードとするものでした。こうした流れの中で私は、gopherサーバーとWWWサーバーの立ち上げを中心として参加していました。当時在籍していた多くの大学院生の方々とともに、UMIN1上のデータベースをgopher上に展開し、それらのリソースへのポインタとUMIN2の利用をサポートするためのページをあわせてWWWを構築する事が目標で、こうしたサービスはそれぞれGopherが1994年3月15日、WWWがUMIN2システムの公開後の7月13日に公開され、その後私が博士課程を修了しがんセンターに就職する1995年4月までの間お世話をさせていただきました。
今となっては本当にシンプルで懐かしい限りなのですが、最も初期(1994年12月)のUMINのWWWは、図のようなホームページを持っていたのです。当時はまだNCSA Mosaicとそのライセンス商品が出始めたばかりで、Navigatorのバージョンも1.0N(英語版)という時代でした。当然日本語の表示にはパッチソフト(FontPatchn'など)や設定の変更が必要でしたが、それでもWWWブラウザをユーザーインターフェースとする情報システムの構築には広大な未来があると考え、サーバーの管理とコンテンツの作成に努力したものです。
現在UMINは大きく発展し、国立大学病院間のプロジェクトやさまざまな研究活動に対するインフラストラクチャーとして重要な役割を果たすものに成長しています。国立の情報ネットワーク・システムとしては、省庁再編や大学のエージェンシー化など、大きな環境の変化が起こるものと想像されますが、それをまたジャンプ台として大きく飛躍されていくことを期待しています。

図 UMINホームページ(1994年12月)


UMIN発足10周年に寄せて

富山医科薬科大学附属病院医療情報部
UMIN連絡担当者

石田 達樹

UMIN発足10周年を迎えられたことを祝し心からお慶び申し上げます。富山医科薬科大学附属病院とUMINとの関わりについて振りかえってみますといろいろなことが思い起こされます。本学がUMINに接続されたのは平成7年2月です。ちょうど、UMIN1(N1ネットワークによる接続)からUMIN2(telnetベースのTCP/IP接続:インターネット接続)への移行期でありました。WEBベースの接続もほとんどなく、インターネットという言葉も今ほど一般的ではありません。何をどうすればよいのかまったく分からず、UMIN事務局のサポートが唯一の頼りでした。
附属病院LANをインターネット接続するためのJPNICとのIPアドレス取得交渉、学内LANと附属病院LANが明確に分離されているにもかかわらず、インターネットへの接続点は1個所しか認められないという管理上の問題、ファイア・ウォールなどについて、櫻井先生やUMIN事務局の皆様にはとても有益なアドバイスを頂きました。
 また、院内への周知徹底と啓蒙のために、櫻井先生と折井先生をお招きし説明会を開催しました。200人を超える出席者。ビデオプロジェクターを使用して、UMIN2への接続、東京大学附属図書館の蔵書検索、Eメールなどの実演デモが行われました。当時は文字ベースのGopherしか利用できませんでしたが、ミネソタ大のデータベースに接続して、画面が次々に遷移していくさまに、会場から感嘆の声が上がったのを覚えております。
ユーザIDの登録に関しても、UMIN事務局のご協力を仰ぎました。本院においては、病院総合情報システムのユーザIDを持つ全職員がUMINユーザIDを取得するという原則をとったため、一時に700人以上の登録を余儀なくされました。ネットワーク経由で1名1名登録するには時間がかかり過ぎるため、ファイルの一括登録に対応する仕組みを構築して欲しいという要望をお願いしたところ、対応プログラムの作成を心よく引き受けて頂きました。
ファイア・ウォールを含めた機器環境の設定が済むと,UMIN接続記念式典が開催されました。UMINに対する期待の大きさを反映して、院内各部門から全職種の職員が集まりました。式典では、当時、東大病院中央医療情報部長であった開原先生からの祝賀メールに対して、病院長からの返礼メールを送ることができました。
最近は学生の間でもUMINの認知度が高まり、メーリングリストも活発に利用されています。UMINに接続できないなど不具合があると、担当のところへすぐ電話がかかってくる状態です。UMINは本学附属病院関係者のインターネットリソースとしてなくてはならない「世界の窓」になっています。そのため、事務局の皆様には一番口うるさいユーザとなっているのではと恐縮しております。
平成11年2月より、さらに強固なファイア・ウォールを構築するとともに、院内全ての端末から、より快適にインターネットへ接続できるよう環境の整備を図ることができました。
UMINのさらなる発展を祈ってやみません。


UMIN10周年をお慶びして

国立大阪病院長
元運営委員

井上 通敏

 10年前というと平成元年ですが、この年、開設記念式典が山上会館の大会議室で行われたのを思い出します。当時の有馬東大学長(現文部大臣)、高久医学部長が臨席され、ご挨拶されました。お二人とも、当時はUMINのこともネットワークのこともあまりご存知ない内容のご祝辞だったと記憶しています。当時、私は開原先生の後を継いで国立大学病院情報処理部門連絡会議の会長だったので、お偉い先生に混じって祝辞を述べさせていただきました。何を申し上げたか忘れましたが、一つ覚えているのは「このネットワークで東京も地方も同じ情報環境となり、大学のボーダーレス化が期待できるのではないか。同じ釜の飯を食った仲間でなく、同じ釜の情報を食った仲間の時代になる」と言ったことです。この自分の言葉が帰阪後も頭に残り、後年、高橋教授とつるんで「京大―阪大医学部ボーダーレスプロジェクト」を仕掛けることになりました。残念ながら日本の大学のボーダーレス化は私の頭にあったほどの速度で進んでいませんが、いまも実現を期待している夢です。
 UMINのことですが、当時、まだ電子メールを使っていなかった私には戸惑いがあり、開原先生からメールを見たかと電話がかかってくる有様。お陰で、この便利なシステムを阪大医学部のなかでは比較的早く体験でき、医療情報部教授の面目を保てました。バカの一つ覚えというのか、その後の阪大キャンパスLANや医学部LANの構築においては、熱心な若手を煽る一方、年配の教授を説得する役割を演じさせていただきました。教授会MLを設けて時間を節約しようよと提案しました。(私の在籍中はみなさんいやいやながらも使ってくれましたが、最近はあまり使われてないとのことでちょっと残念です。)国立大阪病院に移ってからも、院内LANを利用してペーパーレス化に取り組んだり、部長会や医長会をMLで行って、新しい病院像を作ってやろうと頑張っています。UMINで離陸させていただいたお陰です。
 UMINが開設されて、3年ほどするとインターネットが急速に普及し、UMINが呑み込まれてしまいました。UMINの存続理由が危うくなったわけです。ここで頑張ってくれたのが開原先生、櫻井先生をはじめ東大病院医療情報部のみなさんでした。医療情報のサーバー機能を充実させることと、UMINを国立大学病院だけでなく公私立大学病院にも広げること、さらにはその他の医療機関からもアクセスできるようにという戦略でした。今日、社会から評価を受けてめでたく10周年を迎えることができたのもこの戦略が成功したからだと思います。
 これまでUMINの構築と発展に携わっていただきましたご関係の皆様にお礼申し上げるとともに、これからも時代を先取りしてUMINがますます発展することを期待しています。


「予知できない未来への創造」

山口大学経理部主計課長
元文部省医学教育課大学病院指導室

及川 洋輝

 UMINが10周年を迎えるということをお聞きしました。先ずは節目の年ということで、心からお慶びを申し上げます。
発足当初の昭和63年当時に文部省高等教育局医学教育課大学病院指導室に在籍し、「全国国立大学医療情報用電子計算機」の東大病院への設置要求から、昭和64年度の医療情報ネットワーク増強の概算要求に関わった一人として、このような晴れがましい機会を頂いたことに対する感謝の気持ちと、ひと昔前のことなのに殆ど記憶が薄れてしまっていることから、引き受けていいものかどうかという戸惑いが交錯したままで画面に向かってしまいましたことをお許し頂きたいと思います。
10年前と言いますと、医療情報部は千葉大学、東京大学、京都大学、大坂大学、九州大学の5大学にしか設置されておりませんでしたが、現在では平成11年度設置を含めて31大学と大幅に増えております。また、昭和64年度概算要求時はバケット通信ネットワーク(N-1網)を敷設して、初年度6大学でサービスを提供することにしておりましたが、今やそのN-1接続サービスは中止され、TCP/IP接続(インターネット)により、国立大学等ばかりでなく、一般に広く情報を公開するようになっております。
当時の医療情報処理部門会議の先生方はこのような状況を予想していたことでしょうが、概算要求に関わった我々(私はと言うべきかもしれませんが)は、全国立大学病院間を繋ぐことまでしか考えていなかったと記憶しております。
いま、臓器移植法が施行されてから初めての脳死による臓器移植が行われたことを連日マスコミが報じておりますが、昭和63年当時は日本医師会生命倫理懇談会から「脳の死(脳の不可逆的機能喪失)をもって人間の個体死と認めてよい。」との最終報告が出されたばかり、脳死判定基準も数大学の倫理委員会が作成したものの、多くの大学はまだ検討中というような状況でありました。この問題は10年が長かったのか短かったのか分かりませんが、情報通信分野での進歩は時間を超えるようなものがあり、とどまることのないものであったように思えます。
本学の廣中平祐学長が、今年の卒業式において『未来は知ることはできないが、創造することができる。』という言葉を学生に贈りました。これからのUMINの未来は、医療情報処理部門会議の先生方をはじめ関係者皆様のたゆまない“創造”により、予知することもできないような更なる発展を遂げることを期待しております。


UMINのある朝はこうして始まった

東京大学医学部附属病院中央医療情報部教授

大江 和彦

ある月曜の朝8時10分、パタパタパタッとサンダルの音が走ってくる。この足音はすぐ隣の部屋から部長が走ってくる音だ。UMINのトラブルに違いない。隣の部長室からUMINの事務室まで走らなくても5秒かからない。「来るよっ!なんかトラブッてない?」とUMIN事務室兼開発室内で私と徹夜明けのSEのKさんとで顔を見合わせる。「さー、早朝にメールのプログラム入れ替えましたけどねえ。さっきチェックしたけど動いてましたよ」と彼はたばこをふかしながらあっさり言ってのける。その時バンと事務室のドアが開く。「大変だあ、UMINのメールが使えない!」「さっき、動いてましたけど」「さっきじゃない、今使えない!」「どこからアクセスしておられるんですか」「病院の診療端末!」「えっと…あっホントだ、UMINと東大との間の接続がきれてるみたいですね。UMINは動いてますよ。東大側の問題でしょ。」未明にUMINのシステムプログラムを入れ替えて起動しなおしたので、各大学病院のシステムとの通信接続がその時点で一度切れてしまい、そうなるとUMINが動いていても各大学病院側で再接続コマンドを実行しないとUMINとの接続が切れたままである。
「大江君!病院側の問題だって!再接続コマンド実行してよ」「病院システムのオペレータさんに指示しておきます。」10分後、「つながった!メール読めるようになった。」やれやれ、これでゆっくりコーヒが飲める。Kさんとコーヒで一服して時計を見たら8時半、さて今日は症例データベースの開発の続きをやるか。かくして、1989年冬のUMINのいつもの1日がはじまるのであった。
1989年(平成元年)冬はUMINがスタートして2年目、私が東大病院中央医療情報部助手としてUMIN事務室に机をおいて数ヶ月の時である。この部屋はまた開発室でもあり、初期のUMINの全てのプログラムがこの部屋でSさんら数名で手作り開発されていた。UMINのセンターコンピュータと各大学病院のコンピュータとはN1接続方式という大型計算機同士を相互接続するための国産固有方式でつないでいた。東大病院のコンピュータ(富士通)とUMINのコンピュータ(日立)との距離は物理的には「すぐソコ」であったし、両方の端末が同じUMIN部屋の隣同士の机にあるという近い位置関係であったが、接続上は他大学病院と変わらずN1経由で異なるメーカーの大型計算機がつながっているという「遠い」状況であった。どうして遠いか。それは冒頭のやりとりで象徴されるように、どっちの問題でつながらないのかが利用者には全くわからない、病院側の問題であればUMIN側ではどうしようもない、というのが当時の技術だったからである(今もあんまり変わりないという説もある)。
N1接続に起因するさまざまな問題は多くの大学病院から苦情がきた。あるときはそれがUMINの方針への批判にもなったりした。しかし、WWWが世に出てきたのは1992〜3年頃であり、インターネットで使われているTCP/IPプロトコルを富士通が病院情報システム自体の業務系通信プロトコルに初めて採用したのが1994年の東大病院であった。そう考えると1989年にともかくも異機種大型計算機ネットワークがUMIN-1としてスタートし電子メールサービスが提供され、1995年にUMIN2としてインターネット接続併用も開始しているのは、いずれも大変なチャレンジだったと思う。その黎明期に文字どおり昼夜をUMINの開発室で過ごせたことはいい経験であった。研究資料の管理と公開を便利にしようという発想でWWWが誕生したように、UMINでも利用者の視点にたった数多くのチャレンジから革新的なネットワーク環境が誕生することを期待する。


UMIN事始め

東京大学大学院医学系研究科健康科学・看護学専攻
健康科学大講座生物統計学部門
元UMIN担当教官

大橋 靖雄

医療情報ネットワーク、通称UMINの立ち上げに関与させていただいた立場から、まず10周年を心からお祝いし、今後の発展をお祈りしたい。
筆者が工学部から附属病院中央医療情報部に講師として移動したのは昭和59年、部が現在の旧外来棟4階に移る前の、雑然とした中で新しいものを生み出そうというエネルギーに満ち満ちていた時期であった。現在は教官となられている大江和彦先生、木内貴弘先生、小野木雄三先生は大学院生あるいはそれへのなり立てであり、中央医療情報部の、そして日本の医療情報のまさに揺籃期であったと言える。部長・教授に就任された開原成允先生が筆者を病院に呼ばれた最大の目的は、医療統計(生物統計)を東大に根づかせ育てること、つまり学生と研究者に対し教育とコンサルテーションを行い、日本でも一流の(臨床)医学研究が行えるインフラストラクチャを創ることであった。開原先生も筆者も、情報システムそして統計は医学研究を支える両輪であると考えていたものの、今なら誰もが口にする情報発信の重要性も先生は強く認識されていた。先生の認識と情熱がUMINの誕生につながったのである。
筆者がアメリカ留学を終えたのが昭和62年であり、直ちに命じられたのがベッドサイドトレーニングとして始められた学生対象の情報処理教育と、大プロジェクトとして動き出していたUMINの担当であった。元来が統計屋であり、計算機科学やネットワークは素人の筆者にとっては今も汗顔のいたりであるが、仕様の策定、システムの入札、計算機搬入、BITNETとの接続、各大学への接続、現地での利用者教育と、多くの方々の情熱と献身に支えられ、何とか平成2年に櫻井恒太郎先生にバトンを引き渡せたのは懐かしい思い出である。
当時のシステム・利用状況と現在のそれらとを比較すれば隔世の感をもつ。外部とのコミュニケーションをほとんど持たなかった、しかもメーカが異なる病院コンピュータをN1プロトコルで接続することがいかに大変であったか、当初の売り物のMEDLINE検索がいかに高価で不便であったことか、メールが使いにくかったことか、そして(開原先生は主張されたものの)人名そのものをIDにすることが利用者管理の立場からできなかったことなど、TCP/IPとそれに基づくインターネット環境、医学部図書館の強力な(しかも無料の)検索環境、ユーザーフレンドリーなインターフェイスになじんだ現在からすれば今や夢物語である。
一方、我が身と生物統計のその後を振り返れば何と進歩の遅いことか。Evidence Based Medicineの「流行」や新薬認可システムの国際化と大幅な改革により生物統計の意義は広く認められたものの、教育システム、そして医学研究支援の体制はまだまだ不十分である。おもりをしていたネットワークに今やこちらが育てられる時代が来ているのであろう。筆者の専門分野に限ったとしても、ネットワークを利用した多施設共同研究のデータ管理や調査への活用、臨床試験登録情報やメタアナリシス結果の発信、Bulletin-boardと電子メールによるコンサルテーション、MINCSによる遠隔教育など、ネットワークの恩恵と将来の可能性は今や莫大である。開原先生を始めとして、UMINプロジェクトを推進された方々の先見性に敬意と感謝をささげたい。


UMIN10周年

UMIN事務局

乙津 浩二

私が大学医療情報ネットワーク(以下UMIN)を知ったのは2年ほど前の97年5月末のことです。それまではこのような組織があることさえ知らず暮らしてきました。初めてUMIN(ユーミン)と聞いたときは某有名女性歌手に関係する組織かとも思いました。医学関係でコンピュータを扱う仕事ということを聞いていたのですが、芸能人のマネージでもさせられたらどうしようなどと仕事の内容に不安を覚えたこともありました。
こんな私ですのでUMINの歴史などは語れませんが、UMIN事務局に籍をおき今回原稿を書く機会に恵まれましたので事務局での体験などを書きたいと思います。
UMIN事務局には一人1台以上の仕事用コンピュータがあり、連絡は電子メールで行うという最も進んだオフィス環境が整っています。少ない人間で多くの仕事ができるように考えられておりますが、最近の仕事量の増加に対応できなくなりつつあります。人を増やせば多くの仕事をこなせるかと言えば必ずしもそうではなくそのバランスが微妙なところです。現在の事務局は意思決定も早く、無駄な人材もいないので仕事効率も高いレベルにあり、本来オフィスが持つべき姿がここにあるのではないでしょうか。
基本的に外部からのご意見・質問等も電子メールでお願いをしているのですが、直接事務局に電話をかけてこられる方もおり、その対応で半日費やすこともあります。また、事務局にはとても初歩的なものから高度なものまで様々な質問がきます。自分が初めてインターネットに触れたときのことを考えると初歩的なことにも親切にお答えしたいと思いますが、人も時間もない事務局では懇切丁寧というわけにはいきません。FAQを作成しそれを見てくださいということになります。画面をキャプチャしたものなどを使い初心者の方にもできるだけ分かりやすいようにFAQやUMINマニュアルを作っていきたいと思います。
初心者の方にとってはどのような質問が初歩的か分からないようでメールで“インターネット初心者です。初歩的な質問で申し訳ございませんが…"と書かれているのにその質問内容はとても難しく返事を書くのに苦労したりということもあります。病気に関しての質問・相談のメールもよく来ます。ご本人・ご家族にとっては藁にもすがる気持ちでしょうが、これらに関してもUMIN事務局では対応することができません。
電話をかけるときに「大学病院医療情報ネットワーク事務局です。」と言いますと長いですし、相手も「大学なにない事務局ですか?」と途中の部分がわからなくなります。そこでUMINと関わりのあるところに電話をかけるときは「UMIN事務局です。」と短く名乗ります。すると「郵便事務局?」と聞き返されたりすることがあります。それが東京大学の内部だったりしますとまだUMINはメジャーじゃないのかななどとちょっと悲しくなったりします。“医療に関わる人でUMINを知らない人はいない”となるようにしていきたいと思います。
現在、学会演題登録システムに携わっておりますが、これは日本の医学界に革命を起こすのではないかと感じております。まだこのシステムを始めて日が浅いので抄録データは少ないのですが、抄録が全てUMINのサーバに載ると、インターネット経由で自分の調べたい分野、人など学会を越えて検索できるようになります。それぞれの学会が個別に持っていた情報が開かれることによりより多くの研究者、患者さんに身近なものとなり今後、日本医学の進歩に大きく貢献できるのではないでしょうか。
UMINの活動が今後、皆様の役に立つようがんばっていきたいと思います。


「薬剤小委員会」を通じて

東京大学医学部附属病院将来計画推進室
元薬剤小委員長

折井 孝男

[はじめに] UMINは平成10年度より「大学医療情報ネットワーク」から「大学病院医療情報ネットワーク」に名称が変わり、21世紀における新たな展開が期待される。UMIN開設初期は薬剤小委員会設立などを中心に、櫻井恒太郎先生(現運営委員長)と各大学病院の医療情報部、薬剤部等にUMINの紹介、利用方法などについて説明に行かせて頂いたことが強く印象に残っている。当時UMINについては、各大学において一部の関係者の中だけの話題であったようである。しかし、10年が経過し、情報のながれの早さとともに、UMINの利用も活発になり、現在では「利用しないと情報に遅れてしまう」という意見(薬剤関係者)まで頂いている。
[薬剤情報の共有化] 医療の中では医薬品に関わる薬剤情報が医師、看護婦に限らず医療従事者すべてに必要とされている。病院薬剤部では、院内(院外)で発生する様々な薬剤に関わる問い合わせの対応に苦労していた。これら薬剤に関わる情報の要求に対し、単に情報を返すということだけでなく、情報の「質」という重要な問題も考える必要が生じていた。そこで、当時の薬剤小委員会では、薬剤に関わる情報を「共通のもの」として提供することを検討した。その結果、医療用医薬品添付文書情報(以下、添付文書情報)と薬価改訂情報の提供を開始した。このことは薬剤分野における「情報の共有化」の第一歩を踏み出したものといえる。
 添付文書情報については、(財)日本医薬情報センター(JAPIC)と(財)医療情報システム開発センター(MEDIS-DC)により作成された医薬品情報データベースを購入し、各大学に対し提供した。提供当初は3ヵ月に一度の割合でメンテナンス情報を各大学に送付していた。しかし、副作用などによる薬剤の改訂情報の頻度は高く、医療現場に対し生きた情報を提供する必要性のあることから、月一回の提供に切り替えた。このような経験を積み重ね、「薬剤情報の共有化」の必要性を行政側(厚生省)に対し強く提言した。その成果は、厚生省が平成11年度より提供を検討しているインターネットを利用した「医薬品情報提供システム」の構築へと展開した。この中には提供する情報として「医療用医薬品添付文書情報」が含まれている。この添付文書情報は製薬企業各社において迅速にメンテナンスされることから、利用者は最新の情報を共有することができる。 [薬剤情報提供の点数化]薬剤情報は医療関係者だけでなく、患者に対しても提供されなければならない。薬剤小委員会では、患者、特に外来患者に対する薬剤情報の提供について全国の大学病院における実態調査結果等を行政側(厚生省)に対し提言した。その結果、「薬剤情報提供加算」へと展開したことも薬剤小委員会の一つの実績といえる。
[今後の課題] 薬剤小委員会では今後の検討課題として、業務データの収集(提供も含)体制を確立する必要がある。まずは、国立大学病院薬剤部における業務(調剤)量等を正しく把握できる体制を構築する必要がある。例として、「処方剤形別調査」には、注射薬調剤の実施にも拘わらず、その業務量が十分に反映されていないことなど、これらの業務量を正確に捉えるためにはどうすれば良いか等を行政側(文部省)を含め検討することが望まれる。
[おわりに] 現在薬剤情報データはUMIN事務局を通じ各大学に提供されている。しかし、各大学では情報が届くのを「待つ」という体制をとるのではなく、必要な情報は自分達から積極的に「取りにいく」という考え方に切り替えることが必要である。このような事から大学病院において大きな情報源であるUMINが、今後さらに積極的に活用されることが望まれる。


私がプログラムを書くのを止めた理由

東京大学医学部附属病院
中央医療情報部助教授
事務局長

木内 貴弘

東大病院中央医療情報部の大学院に入ったのが昭和63年の3月で、丁度UMINの設立準備が行われていたが、さしたる関心も持たず過ごしていた。3年半程いて院を中退し、東大保健学科疫学教室で助手を務めることになった。
さて、中央医療情報部の外に出て気づいたのは情報システムを構築して利用してもらうのが難しいということであった。東大病院では、病院情報システム、UMIN用に豊富な数と種類のコンピュータがレンタルされており、システムを開発すれば使ってもらえるユーザが沢山いる。またメーカー派遣のSEがシステム開発を行っており、プログラムを書いてもらうことも可能であった。しかし、学部に行くとパソコン1台買うのも大変だし、プログラムを書くのは自分しかいない。ユーザーも探さなくてはならない。
ちょうどこの時期であった、インターネットの普及がはじまったのは。インターネットでは、安価のパソコン上でフリーウエアを活用し、自分でプログラムを書いて各種のサービスの提供が可能であった。自分の開発したシステムを世界中の人に簡単に使ってもらえるようになったのである。信じられなかった。この頃は一生懸命にプログラムを書いていた。技術的なものでは、インターネットに仮想閉域網を構築するプログラム、アプリケーションでは栄養診断プログラムや臨床試験の症例登録・割付プログラム等を開発して好評を得た。インターネット時代には個人のアイディアと才能があれば、誰でも情報サービスの提供が可能である。いろいろなプログラムやプロトコールのアイディアを考えていたし、工学系の学会に論文を出す等、意気盛んであった。思考法も技術者のそれに近づいていた。能力さえあればUMINにも負けないと思っていた。
はからずも平成8年5月からUMINに着任した。SEと分担を分けて、相変わらず自分でプログラムを書き、システム管理からハードウエアのインストールまで行っていた。最初の1、2年は土日もなく、朝から晩までがんばった。恵まれたマシン環境で大きな仕事ができるのが嬉しかった。
UMINには、国立大学病院の組織としての位置付けと、ハードウエア・ソフト開発費等の予算が与えられている。その代償として、システムに対しては信頼性・継続性、開発するソフトやデータベースの仕様・内容についてはいろいろな人の意見・要望の集約が要求されている。こうした環境では、他の人によりよく働いて力を発揮してもらうための管理能力や様々な人の要望・意向を取りまとめて調整していく能力の方がはるかに重要であることに次第に気づくようになった。
研究や趣味と違い、業務ではプログラムを書くよりももっと大きな努力が保守に割かれる。書いた、動いたでは済まない。これには時間をとられる。自分でやっていては、自分にしかできない仕事をやる時間がなくなってしまう。UMINのデータベースやプログラムのほとんどが各分野の専門家で構成される各種の小委員会からのアイディアに基づいて開発されてきた。そして、各小委員会は更にメンバー以外の専門家から意見や要望の吸収に努めてきた。こうした人のネットワークがUMINにとって本質的な意味を持つのである。この人のネットワークを機能させることが私の一番の仕事である。UMINは、国立大学病院の組織として情報サービスを行っているのであり、個人または研究室等の行う情報サービスとはその性格や質がまったく異なるのである。数年かかって、やっと私にインターネット時代のUMINの意義と役割が見えてきたつもりでいる。  
最後に、これまでの国立大学病院を中心とした医学・医療関係者のご支援とご協力及びUMIN事務局スタッフの努力に感謝するとともに、今後も尚一層のご支援をお願いして終わりとしたい。


UMIN10周年にあたって

東京医科歯科大学歯学部事務部長
元文部省高等教育局大学病院指導室

櫛山 博

 今日、UMINが10周年を迎えるあたって、これまで僅かな期間ではありますが、UMINに関わってきた者として思いつくまま述べてみたいと思います。
 平成元年度にUMINが文部省から正式に認められる以前のことになりますが、各国立大学附属病院の業務の改善合理化を図るため、昭和40年代に各大学附属病院へコンピュターが導入され始め、料金計算をはじめとした医事業務のコンピュータ化が進んで来た頃のことですが、当時はまだコンピュータのネットワークが無く、また医事会計用のソフトも各大学病院が独自に開発したものが多く、薬価や保険点数の改訂がある都度各大学病院において徹夜作業をしながら、ソフトの修正を行っていました。この頃私は文部省大学病院指導室の係員でしたが、極力早く改訂内容の情報を各大学病院に提供するため、厚生省の資料を印刷し、郵送する作業を行っていましたが、情報の迅速な提供や同じ作業を各大学病院がそれぞれ行うことに疑問を感じていたものです。
 40年代後半になってくると、各大学附属病院に医療情報部が設置されるようになり、医療情報部の先生方と東大病院の会議室で各医療情報関係者の全国組織化やデータの収集・集計のコンピュータ化等について話を伺う機会があったりしましたが、この頃の構想が、国立大学病院医療情報処理部門会議の発足やUMINの設置の出発点ではないかと思っているところです。
 UMINは、ここ数年の間に大幅に飛躍したと思います。これは、コンピュータネットワークがインターネットを中心に一般の人たちも自由に参加できるような社会になってきたことが大きな背景ではありますが、単なる電子メールとしての利用ではなく、大学附属病院の様々な業務にUMINが利用できるようになってきたことが大きな要因ではないかと思います。事務、看護、薬剤等の小委員会におけるUMINのネットワークを利用した活動や文部省の文書広報システム、各種の資料収集システム等の稼働、医学・医療情報の提供などがあげられます。
 特に、文部省は国立大学や研究所などの関係機関が多く、これらの機関からの各種データの収集・集計等の業務の軽減を図ることが行政のスリム化を行う中で重要課題となってくることが予想されます。現在UMINで実施している文部省文書広報システムや各種のデータ収集システムは、各大学附属病院で入力されたものが、UMINのコンピュータで処理され、文部省の各自のパソコンで集計結果として見ることが出来るものであり、これにより文部省で行っていたデータの入力や集計などの業務の全てが省力化でき、また、各大学附属病院への集計結果の還元も各大学病院が適宜ダウンロードできるようになっている。このようなシステムを文部省全体(特に国立大学等)で活用することにより、文部省に限らず各大学においても業務の大幅な削減が可能となるものと思われます。  今後は、このような業務改善のためのシステム作りや大学病院の情報公開の場としての活用、また、公・私立大学病院の積極的な参加や患者情報の保護を図った上で、臨床疫学的研究など様々な分野での活用を期待しています。


UMINと私

北海道大学医学部附属病院医療情報部教授

櫻井恒太郎

UMINの2代目専任教官(助教授)として大橋靖雄先生の後に就任したのは1990年の秋で、北大に転任する1996年までちょうどUMINの「高度成長期」に仕事をすることができたことは大変な幸運であった。当時のUMINは、各大学病院のホストコンピュータと、学術情報センターのネットワーク(SINETではなくN1ネット)とを9.6 KbpsのNTT専用回線で結び、病院の業務用の端末からUMINのホストにログインして電子メールやデータベース検索をするという、いわばBBSの国立大学病院版であった。稼動していたのはまだ8大学病院だけで、毎年、いくつかの大学病院に予算がついて拡大するという実用試験段階であったので、私の仕事は、春から夏にかけてはUMINの設置予算をいかに多くの大学病院につけていただくかの概算要求のために、東大の経理部や文部省の担当者へ説明する資料作りに追われた。現在のMINCSの予算に較べれば僅かなものであったが、データベースの購入費用を認めてもらうのがなかなか大変であった。秋から冬にかけてはその年にUMINと接続が可能となったいくつかの大学病院に薬剤小委員長であった折井先生やメーカーのSEと直接出向いて、UMINの宣伝のための講習会の講師を勤めることであった。この説明会のおかげで毎年、全国の大学病院へ次々と出張をすることができ、各大学病院の様子や情報システムをつぶさに見学するとともに、情報担当者と親しく話をすることができた。全国に42ある大学病院のベンダーやホストOSのバージョンがそれぞれ異なっていて接続に工夫が必要であったため、当時は大学名さえ聞けばベンダーの名前と使っているHOSTコンピュータの種類がすぐ言えるほど覚えてしまった。目的の情報がどこにあるか迷ってしまうような現在のUMINホームページをみると、当時のメニュー一覧が1桁の番号で済んでいたことや、最大利用者数を2000人としていた初期のシステムの話をすると何十年前の話か、と思われそうである。
まもなくUMINも専用線と汎用大型計算機からワークステーションによるサービスとTCP/IP接続を推進することとなったが、新旧の接続で環境の異なる大学病院にサービスを維持しながらの移行がまた複雑な作業であった。開原教授を中心とする先輩、同僚に常に的確なご指導をいただいたおかげで、進歩を先取りする形でUMINのネットワークが今日の基盤が出来、日常的に業務に使われるようになったことは大変嬉しいことである。 このように、私がUMINの仕事を通じて学んだのは、時代の最先端を行くネットワーク技術の進歩と、それを医療において全国レベルで普及させていく上での技術評価と運営の重要さであった。また、全国の大学病院の情報担当者と広く知り合いになれたことが今でも大きな財産となっている。情報システムは、病院内であっても全国規模であっても、中央で管理している人の苦労が多く、ユーザになって注文を出しているほうがずっと楽である。情報システムがこれからも絶え間なく進歩していく中で、UMINが引き続いてその先端をリードする苦労の多い役を務め、医療情報システムの中核として発展することを期待したい。

 


大分医科大学医学情報センター副部長
UMIN連絡担当者

島岡 章

大分医科大学は、平成6年度にUMIN接続システム予算をいただいて、WWWサーバ・ファイアウォール兼用のマシンとメールサーバの2台のUNIXマシンをレンタルで導入した。ちょうど同じ時に、補正予算で通信機器の基盤整備の予算を得て、キャンパス情報ネットワークと4台のサーバを購入することができ、2つの予算の機器を組み合わせることによって、本学は、すべての研究室、病院端末から、UMINそしてインターネットへのアクセスをすることができるようになった。病院の端末は、汎用機の専用端末であったが、Telnetとラインモードの Webブラウザ(Lynx)を使えるようにした。
このころは、大型計算機センター(ネットワーク)にモデムで Telnetアクセスしていた時代から、インターネットを使ったアクセスへの過渡期であり、UMINの予算も、UNIXマシンによるインターネットアクセスの基盤を整備するためのものであった。
 1996年10月に、UMIN事務局では、暗号化通信への対応のため、UMIN3サーバのアクセスポートの変更を行った。WWWアクセスは、通常80番ポートを使っているが、このときUMINは、70番ポートと 443番ポート(暗号化通信用)に切り替えたため、本学からUMINへのアクセスができなくなった。UMIN事務局では、いずれのポートも、標準的な設定で、どの大学でも対応できるであろうと想定して、事前の連絡がないままであった。その当時から、UMINには病院管理者などの官職指定のホームページというのがあり、毎日事務連絡を行っていたようで、UMIN3へのアクセスができなくなったという問い合わせのメールが届いた。UMIN事務局に問い合わせをしたところ、2つのポートを開けるようにという回答があったので、地元のSEに依頼し作業してもらったが、簡単にはつながらなかった。再度、UMIN事務局に問い合わせのメールを出したところ、プロキシのソフトを変更するようにと回答があった。いなかの単科大学では、ネットワークの管理者は素人で、学内に専門家もおらず、技術サポートは地元のプロバイダのSEに頼っている。UMIN事務局からの回答は、この設定をこう変えればOKだという簡単なもので、技術的には一件落着であったのであろうが、いなかのSEは、その指示どおりに設定変更し、再びアクセスできるようにするまでに、さらに2週間を要した。インターネットで得られる情報には地域格差はなくても、それを支えるマンパワーの差は歴然としている。
インターネット接続システムの管理は、セキュリティホールへの対応も含めて、日常的なSEサポートを必要とする。UMINのレンタル予算は、このSEサポートを保証してくれる貴重な予算であった。あれ以降、いなかのSEのスキルもめざましく向上した。他方、買い取りの学内LANの方は、トラブルのたびに会計に頭を下げに行かなければならない状態が続いている。
平成10年度の契約更新で、本学のUMIN接続システムは病院情報システムに一体化された。以前のUMIN接続予算は、いなかの大学にインターネットへの世界を開いてくれたが、これからの病院情報システムは、単に一大学病院内にとどまらず、地域の医療、福祉保健機関との情報交換や生涯教育、地域住民への情報提供などの使命も持つべきであろうと考え、本学では、新たに商用のインターネット回線とISDN回線および情報公開用のサーバを導入した。これから、提供するコンテンツの作成、患者情報の提供のしかたやセキュリティを確保した通信方式などの検討をしていく予定である。


日立ソフトウェアエンジニアリング株式会社
UMIN担当システムエンジニア

高橋 進

私はUMINの第2世代であるUMIN2から、システムの構築に携わってきました。当時のコンピュータ業界では、ダウンサイジング、オープンネットワークの波が押し寄せてきており、UMINでもメインフレーム+N1のシステムからワークステーション+TCP/IPのシステムへと大きく変わったわけですが、新システムでは、インターネットで使用されているオープンなプロトコルを採用しながらも、UMIN1で培われた機能を継承しなければならないため、設計・開発にはかなりの時間と労力が費やされました。中でもUMINのサービスで重要な位置を占めている電子メールに重点が置かれました。
インターネットでのメールの読み出しには、POP3というプロトコルが一般的に使用されていましたが、これはメールの読み出しのみを規定したプロトコルであるため、読んだメールを保存しておくには手元のパソコンに保存するしか方法がなく、病院の端末を移動して利用している場合やUMIN1経由で利用しているユーザには不便なものとなってしまいます。そこで、サーバ上のフォルダへメールを格納する機能やメールを検索する機能等を追加した拡張プロトコルを作成し、システムを構築しました。これは近年普及しつつあるIMAP4というプロトコルに似ていますが、当時存在したIMAP4の前身となるプロトコルはまったく普及していなく、このような機能を有したメールシステムが大規模に実用化されているところは当時では珍しかったのではないでしょうか。
数年経つと、インターネットが日本で急速に普及し、インターネット=WWWという図式が出来上がり、UMINのコンテンツもWWWへと移行して行きました。当然電子メールもWWWで利用したいというニーズも高まってきます。しかし、WWWのプロトコルであるHTTPは状態を持たないプロトコルであるため、UMIN2のように、メールサーバと接続し、その状態を保持したままメニューを遷移して行くことが困難でした。そこで、WWWとメールシステムの間に入り状態を保持するシステムを構築し、WWWから電子メールが利用できるようにしました。こうして出来上がったUMIN3ですが、ブラウザさえあればどこからでも使える便利なシステムに仕上がり、開発に携わった者として満足の行くものになりました。
このようにUMINでは新しい技術に早期から取り組み、運用化しているわけですが、時代の先端を行く技術というものは情報や実績が少なく大変ではありますが、技術者として大変興味深くやりがいのあるものでもあります。インターネットの技術は日々進歩しており、メール一つにとっても次々と機能が拡張され、便利になっています。UMINのシステムも、暗号メールやファイル添付など技術の進歩に合わせて機能追加していますが、今後とも時代に適応したシステム作りを心がけて行きたいと思います。


UMIN初代計算機システム追想録

株式会社 日立製作所
元UMIN担当システムエンジニア

野村 泰嗣

UMINの初代計算機システムが選定された当時は、汎用計算機の全盛期でもあり、M-640という中規模汎用計算機が採用されましたが、今になって考えますと、その当時のUMINが目指していたものは、現在のインターネットによるオープンな情報交換環境そのものであったように思います。その頃から、曖昧ながらもネットワーク時代の到来を、またその必要性を感じていたようにも思います。一方、当時の現実のネットワーク環境は、N-1ネットワーク、BITNET、そしてX.25パケット方式による国際VANというものでしたから、それらを相互に高い自由度で接続することには相当な困難が伴いました。勿論、個々には、大学間ネットワークとしてのN-1、国際的な電子メールとしてのBITNET等、各々高い実績を有しており、その選択に余地はありませんでしたが、汎用計算機を用いてそれらの相互接続を可能にするというシステムは、他に類を見ない先進的なもので、汎用計算機の従来の用途を超えたシステムでもありました。さて、実際に計算機が導入されますと、SEの設定・開発作業は夜を徹して行われることになりました。N-1経由の端末をゲートウェイする為には、N-1の仮想端末をループバック機能を利用してアクセスする方式をとり、またBITNETとの相互接続には"UREP"という米国ペンシルベニア州立大学で開発されたソフトウェアを移植し、国際VAN接続には"PADEMP"という無手順パケット端末をエミュレートするソフトウェアを導入するなど、大変ではありましたが、技術者としてこれほど面白いシステムはありませんでした。ついつい深夜に作業が及び、必然的に真夜中に計算機室からトイレに行くこともありましたが、当時の計算機室は東大病院の地下1階にあり、トイレとの間に何故か自然に開いてしまう扉がありまして、真っ暗な地下の廊下でこの扉が開く瞬間に遭遇しますと、やはり心臓には良くないインパクトを受けたように思います。
各国立大学病院との最初の接続は、その都度SEを派遣し、各病院担当メーカーのSEさんの協力を得て導通試験を実施する方式をとりましたが、各社の病院システムにとってN-1接続は初めてのことでもあり大変に難航しました。予想外に作業時間が伸び、新幹線の終電が無くなって翌日に予定していた次の大学病院に移動できなくなることもありましたが、作業がなんとか終わりますと、各社のSEさんが地元のちょっと気の利いた小料理屋を紹介してくださることも多く、メーカー間の人的ネットワークの方は、順調につながっていったように思います。とはいえ、現地に行くとケーブルがまだ接続されていないといったレベルのトラブルもあり、やはりこれは事前にチェックリストを配布して、ある程度確認をしてもらってから出向くべきだ、という基本的な手順に気が付き、それからは比較的順調に導通試験を進められるようになったと記憶しております。こうしてUMINの初代計算機システムは稼動していったわけですが、インターネット時代の到来とともに次第にその使命を終え、平成9年の12月に解体・撤去されました。また、技術者の方も第2世代へバトンタッチし、老兵は去るのみといった状況ではありますが、今後ともUMINシステムに携わるSEには、次の時代を感じ、そのモデルを手作りする姿勢を受け継いでいきたいと考えております。


電子メールシステムの開発を通じて

株式会社日立製作所

森 徹

私がシステムエンジニアとしてUMINの開発に携わるようになったのは、システムが第一世代から第二世代へと移行する少し前のことです。従来の大型計算機に加えて新しくUNIXシステムが導入され、UMINがはじめてインターネットに接続されました。N-1網から接続した利用者に対してGOPHERやネットニュース等のインターネットの資源を提供するというシステム形態は他に例がなく相当な困難を伴いました。開発が思うように進まないままやがて終電がなくなって、計算機室の簡易ベッドで仮眠をとるのですが、磁気ディスク装置の騒音と振動にうなされながら眠りについていたのが昨日のことのように思い出されます。
一方インターネットからTELNETプログラムにより接続するサービス(UMIN2)の開発も並行して行われておりました。4人のSEから成るチームでUMIN2電子メールの設計・開発を行っていたのですが、UNIXは業務系としては普及しはじめたばかりの頃であるため、ノウハウが少なくまさに手探り状態でした。まず、UMIN2電子メールに必要な要件を洗い出し、当時標準プロトコルとして存在していたPOP3(Post Office Protocol 3)を調査し、これに足りない機能を補って新しい電子メールサーバプログラムを開発し、またユーザインターフェースに関しては、当時普及していたGOPHERを参考にしてVT100相当の端末からフルスクリーンで利用できるように開発しました。現在ではインターネットを検索すれば必要な情報や便利なツールを容易に取得できますが、当時は検索サーバすらありませんでした。そのためプログラムの開発には手間暇かかりましたが、新しい技術に触れることができる業務に携わることは、技術者として大きな喜びでありました。
無事UMIN2電子メールが稼動した頃、MOSAICというWWWブラウザが普及しつつありました。やがてUMINでもWWWサービスが開始され、ブラウザから電子メールを利用できる機能(UMIN3電子メール)を開発するという事となりましたが、その設計では大いに悩ませられました。というのもWWWの通信で使用されているHTTPプロトコル自体状態を保持しないプロトコルであるため、電子メールのように利用者が対話的に利用できるシステムには向かないからです。あれこれと考えて、結局ブラウザとサーバ上の電子メールプログラムとが状態を保持しつつ通信できる現在の方式を選択しました。
 最近でもファイル添付機能やフォルダのメールの一括ダウンロード機能を追加するなど、UMINの電子メールシステムは絶えず進化しております。今後も時代のニーズを取り入れつつUMINの電子メールシステムを発展させていければと思います。


UMIN10周年を迎えて

福井医科大学医学情報センター副部長
UMIN連絡担当者

山下 芳範

 大学病院間の医療情報交換を推進するためにUMINの運用が開始されてから既に10年が経過したとは驚きである。
 UMINがスタートした時には、ネットワークそのものが十分でない時代でもあり、大学病院をネットワークで相互に接続するという構想は画期的であったという印象が今でも残っている。まだ、インターネットそのもののバックボーンが十分でない中で、ネットワークへの参加を推進することは、多くの苦労があったと思われる。特に、現在のようにインターネットのプロトコルであるTCP/IPではなく、N1が全盛の時代でもあり、このような環境下でのシステム構築は、情報通信の封建的時代でもあり、異機種間での設計や調整に関しても大変であったと想像される。
 私もUMINに実際に接続する以前から、N1ではなくIPでの接続を希望するなどと、結構わがままを通してきた経緯がある。しかし、UMINでは、現在のようにインターネットが当たり前でない頃であったが、非常に前向きに検討していただき、結果的にIPでの接続が実現していただいた。そして、UMIN1からUMIN2へと利用の環境も大きく変わり、新しい接続への多大なる努力もして頂いたと思っている。
情報通信の世界もインターネットの普及により大きく変貌し、UMINもUMIN2からUMIN3へと新しい発展をとげた。この遷り変わりは、ネットワークそのものの変化を象徴するものであるが、このような大きな時代の変化に対しても柔軟に対応してきたUMINは非常に評価すべきことと思われる。すぐに陳腐化する情報通信の世界では、常に前進の姿勢で取り組み、それを実行することがこのような変革の中で生き残る原動力であると言える。また、ソフト面でも、UMIN1からの変化を見ても、UMIN3が単に情報通信の変革に対応しただけでなく、内容についても時代に応じた新しい試みも取り込み発展を続けている。これらの点を考えても、相当な労力が投じられていることを察することができる。UMINは、医療情報におけるネットワークの1つのインフラとして常に存在しており、利用する立場としても、このような環境を如何に活用するかということを考えなければならないと感じている。
 インターネット全盛となった今日、UMINもネットワークというインフラではなく医療情報の共通インフラとしてより一層活用することが、今後の役割でもあると考えている。利用者としても、これまでの発展の多大な努力に対して、UMINの今後の更なる発展を期待すべく、より一層の拡大への努力・協力を行うことが必要である感じている。
 医療情報の情報発信の拠点として、また、医療情報の共通の場としても、今後のUMINの大きな発展に期待している。