十年史

1.UMIN1−大型汎用機のネットワーク(S63-H4)

[昭和63年度]
UMINは学術情報センターで運用するN1プロトコールの学術情報網の中で運用される仮想閉域網として構想された。仮想閉域網では、UMINの参加施設だけが学術情報網内にソフトウエアで定義された閉域網によって相互に接続され、セキュリティ保護の観点からは比較的安全なネットワークといえた。N1によるネットワークの構築は、当時の開原運営委員長が学術情報センタ、大型計算機センタと相談して検討した結果出された結論であった。当時既にインターネットはあったがまだ今後普及するかどうか明らかではなかったこと、医療分野ではセキュリティの維持が重要であるが、セキュリティ保護機構のほとんど考えられていなかった当時のインターネットは医療情報ネットワークを構築するためのインフラストラクチャーとして適さないと考えられたことによる。この結論は、昭和63年3月に開催された大学医療情報ネットワーク調査委員会で更に検討され、承認された。
昭和63年5月にUMINコンピュータシステムの仕様書が策定され、入札が行われた。日本IBM株式会社、日立製作所株式会社、富士通株式会社の3社が入札に参加した。予定価格は、メーカー側の予想よりも相当に低く、各社とも予想外の低さに開札当日になって驚いたという話が伝えられている。結局、日立製作所が落札した。日立は、医療関係のコンピュータシステムでの実績が少なく、しかもUMINを担当する部門が医療部門ではない(公共情報事業部・公共営業事業部)ということで、医療関係の話が通じるか当時は大いに心配されたという。
年末に、日立製作所製の大型汎用機M640が東大病院に納入された。東大側ではマシン室の確保に非常に苦労し、やっとのことで旧中央診療棟地下に納入場所を確保した。UMINコンピュータシステムの初期の設定・開発作業はこの劣悪な環境の部屋で行われることになった。開発されたシステムは、電子メールシステム及び薬剤添付文書・病名データベース・医育機関名簿・和雑誌特集記事等のアプリケーションデータベース検索システムであった。UMIN事務局と日立製作所の担当システムエンジニアの間で、月2回の定例会が開催され、開発状況の報告・開発方針が検討された。納期が決まっており、UMIN側の要求レベルも高かったため、開発作業は大変なもので連日に近い徹夜作業となった。
年度末の平成元年3月には、東京大学大型計算機センター(現情報基盤センター)とのN1接続と国際VANへの接続作業が終了した。

[平成元年度]
4月1日付けでUMINに専任教官の助教授ポストが認められた。この当時すでに国家公務員の定員削減が叫ばれており、1名とはいえ純増で専任教官の定員が確保できたのは幸いであった。適任者がすぐに見つからないため、当時大学院生であった大江和彦が専任助教授のポストを助手に下げて就任し、中央医療情報部助教授の大橋靖雄とUMINに関する実務を分担することになった。6月にマシン室が旧中央診療棟2階に移転して、SEの作業環境が改善した。
最初の運営委員会が平成元年の9月に開催され、開原成允が初代の運営委員長となった。UMINの運営組織として、運営委員会の他、事務、薬剤等の職種別の専門家の委員会を設置することが構想され、実現に向けて各部門に働きかけが始められた。これは、各部門にUMINの趣旨やUMINで可能になること等を説明して協力をもとめるという困難な作業であった。この当時は、コンピュータネットワークは一般に知られておらず、その機能や役割をイメージできる人はほとんどいなかった。最初に薬剤小委員会が組織され、活動を始めた。折井孝男が小委員長に就任した。薬剤添付文書や医薬品マスターの共同購入がすぐにスタートした。これらのデータベースは、オンラインでも提供されたが利用形態は磁気テープの配布によるものが多かった。この方が当時は運用が楽であったからである。
この年度には、学術情報センター及び接続予算の認められた8大学(北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、岡山大学、九州大学)との接続作業が行われた。接続予算は、接続に必要なDSUと呼ばれる機器をレンタルするのに必要な経費のことであり、月額50万円であった。接続作業とテストのために、UMIN事務局と日立製作所のスタッフが現地に出張し、各大学病院のスタッフとその病院の病院情報システムを納入しているメーカーの担当者といっしょに接続作業・テストを行った。あわせて各大学病院の学内で、UMINの紹介と利用のための講習会が行われた。1大学を接続するたびにこれらが繰り返されたわけで、接続には大変な労力が必要であった。並行して、AMA/NetやBitnet等の海外のネットワークとの接続作業も行われた。
平成2年3月には、接続作業とアプリケーションの開発作業が終了し、UMINは8大学で正式運用を開始した。これに合わせて、UMINの開所式が東京大学山上会館で盛大に挙行された。平成2年3月に大橋靖雄が東大医学部保健学科疫学講座の教授として栄転し、UMINを離れた。

[平成2年度]
7月に櫻井恒太郎が京大医療情報部講師からUMIN専任の助教授として着任した。大江和彦は、大橋靖雄の後任として講師に昇任した。
UMIN側の働きかけに応じて、各部門毎の小委員会の整備が進んだ。5月には第1回看護小委員会が開催され、12月には事務小委員会の発足準備会、平成3年3月には第1回の事務小委員会が開催された。
この年度は、新たに8大学(群馬大学、鹿児島大学、新潟大学、長崎大学、金沢大学、熊本大学、神戸大学、広島大学)の新規接続が行われた。また11月には電子会議室の運用が開始された。

[平成3年度]
この年度は、7大学(鳥取大学、愛媛大学、琉球大学、弘前大学、千葉大学、筑波大学、信州大学)が新規接続された。登録利用者数がようやく1000人を超え、接続大学は計23大学になった。また文部省に初めてUMINの端末が設置され、文部省からUMINが利用可能になった。N1接続は、異機種間の接続であり、当時は接続のための打ち合わせや機器の調整が必須であった。この目的のために、各大学病院の病院情報システムのベンダーで技術小委員会(旧)が組織されて、UMIN事務局との間で技術的な話しあいが行われた。

[平成4年度]
4月にUMINのニュースレターが創刊され、本年度中に3号まで発行された。
この年度は、5大学(旭川医大、高知医大、香川医大、島根医大、浜松医大)が新規接続され(N1)、計28大学病院が接続された。しかし、この頃になっても、ユーザインターフェイス等の機能の貧弱さ、レスポンス速度の遅さ、端末の数の少なさ(高価なため)等のために利用者、利用件数とも十分な数に至らなかった。
平成5年3月に各大学の実務担当者を集めてはじめて利用者会議が開催された。この席で、UMIN次期システムの方針等も議論された。この頃、インターネットが全世界に急速に普及しつつあった。日本でも、医学・医療分野のネットワーク情報サービスを始める人が何人も出てきた。

2.UMIN2−インターネットへの接続(H5-7)

[平成5年度]
インターネットの普及は、UMINの役割・意義についての議論を引き起こした。UMIN設立の頃には、日本ではインターネットはごく一部の研究者に実験的に利用されているに過ぎなかった。情報の伝達は出版、放送、郵便、電話、専用回線等の手段に限定され、多数の人に対してメッセージを伝達するには多額の費用がかかり、個人の力では困難であった。つまり「情報提供・交流のためのインフラストラクチャー」そのものがそれ自体で大きな価値があったのである。それがインターネットによって、安価に実現してしまうことになったのである。
大学等のインターネット接続環境のあるところでは、多少の技術さえあれば、パソコン一台とフリーウエアーを使って情報サービスの提供が可能となった。電子メール、ニュース等のコミュニケーション、GopherやWWW等を利用した情報発信が比較的簡単にできるようになった。個人の判断で自由に世界中に情報サービスができ、個人の創意や工夫を生かすことができることは、インターネットの大きなメリットとされた。リソースのネットワークを利用した分散処理・管理の利点が説かれ、UMINのような集中型のコンピュータセンターは不要であると考える人も現れた。個人のボランティアレベルの情報サービスがインターネット普及初期には一部の医学・医療関係者によって熱心に行われた。大変な努力で自ら情報を収集・作成して、提供を行っている医学・医療関係者が何人か現れ、人気を集めた。
インターネットの普及が進む中で、UMIN第2期システムのリプレースが行われることになった。UMIN側でも必ずしも今後のネットワークサービスのあり方やUMINの役割がはっきりと明確になっていたわけではなかった。仕様書の作成にあたっては、今後の方向性も踏まえて、いろいろな議論が行われた。インターネットとそこで使用されるTCP/IPプロトコールの技術的な優位性が次第に明らかになってきた一方で、N1は世界標準からはずれる上、機能的にもまったく不十分で将来性にも欠けていた。このため、今後のUMINはTCP/IPを利用したインターネットベースでの接続に移行するという方向性が決定された。しかしながら、UMINには既存のN1接続の大学もあり、これに対してサービスを継続する必要があった。このため、仕様書は、N1接続(このシステムはUMIN1と呼ばれることになった)とインターネット接続(このシステムはUMIN2と呼ばれることになった)の両方のシステムを導入して相互乗り入れを行う仕様になった。7月に入札が行われ、日本IBM株式会社と日立製作所の2社が応札し、日立製作所株式会社が落札した。
平成6年1月に新システムの機器が搬入されて、稼動を開始した。新たにインターネット接続用のシステムが開発された(UMIN2)。UMIN1からUMIN2へのゲートウエイが開発され、UMIN1経由でUMIN2(インターネット)が使えるように設計された。UMIN側で指定した仕様にあったパッケージ製品は存在していなかったため、ほとんどのシステムが作り込みになってしまった。当時、インターネットやTCP/IPについてシステムエンジニアには経験や知識も少なく、日本語の情報はほとんどなかった。このため、英文の文献を読んで勉強しながら、システムを構築していくという非常に辛い作業になった。納期に間に合わせるための努力は大変なものであった。具体的なUMIN2の機能は、電子メール、ネットニュース、各種データベース検索システム(医薬品添付文書検索、医薬品副作用検索、医育機関名簿検索、服薬指導)であった。当時は、Gopherが普及していた時期であったため、UMIN2はGopherのインターフェイスを意識して設計され、またUMIN2の画面からGopherを利用できるように構築された。UMIN2と画面とGopherの画面がシームレスに統合されており、各種の検索・データ収集はUMIN2、文書の掲載・参照はGopherで行われた。3月には、新たに中毒データベースの提供がGopherで始まった。
この年度の新規接続は、5大学(山形大学、福井医科大学、山梨医科大学、東京医科歯科大学、滋賀医科大学)であったが、山形大学を除いた4大学は、TCP/IP接続で接続されることになった。この後の接続は、原則としてTCP/IP(インターネット)接続で行う方針が決定された。セキュリティ上の問題は残るが、当面は患者情報を取り扱わないこと、将来的にTCP/IPによる専用回線かまたは暗号処理によって問題が解決できることが予想されることから移行に踏み切った。TCP/IPの採用によって、フルテキスト画面の利用が可能になり、利便性が非常に増した。

[平成6年度]
6月に第2期システム(UMIN2)の公式運用が開始された。インターネットを介して個人の資格でUMIN2を利用することが承認され、8月に登録受付が開始された。新システム(UMIN2)は、旧システム(UMIN1)よりもはるかに使い勝手もよく、利用者が次第に増えていった。 平成6年に入ると、Gopherの数年後に出たWWWの方がはるかに優勢になり、WWWによる情報提供が増えてきた。WWWの機能はGopherの上位互換であったということもあり、既存のGopherリソースもWWWブラウザーで利用できたことがWWWの普及を促進した。UMINでも、平成6年5月からWWWサーバを開設してサービスに乗り出した。これ以降新規の情報収載・プログラム開発は、原則としてWWWで行われるようになった。
この年度に、3月には新たに9大学(秋田大学、三重大学、富山医科薬科大学、岐阜大学、大分医科大学、佐賀医科大学、山口大学、徳島大学、宮崎医科大学)が新規接続され、本年度を持って42大学すべての接続が終了した。接続方法は、すべてTCP/IPであた。業務向けのサービスのためには、すべての大学で利用できることが重要であるが、本年度をもってこの条件が満たされることになり、本格的な業務利用の増加が期待された。

[平成7年度]
7月に学会データベースの収集・掲載が開始された。10月には登録利用者が5千人を突破した。
12月に、文部省文書広報システムが稼動した。同時に各大学病院事務部幹部(課長補佐以上)職員に官職指定アドレスの発行が行われたが、これは同システムを参照するためのIDとして利用された。 初期のシステムでは、文部省からのFAX画像を自動的にUMIN WWWサーバに取り込んで表示するものであったが、FAXの解像度が低いために読みにくかったこと、紙での通知も従来同様に行われたために利用頻度はあまり高くならなかった。

3.UMIN3−GUIの登場(H8-)

[平成8年度]
平成8年4月に櫻井恒太郎が北大病院医療情報部教授に栄転し、5月に木内貴弘が東大医学部健康科学・看護学会疫学・生物統計学講座助手からUMIN専任教官(東大病院中央医療情報部講師)として着任した。このころ登録者数が1万人を突破した。
平成8年時点では、WindowsやMacintoshによるグラフィカルユーザインターフェイスの利用は既に当たり前になっていたが、WWWの普及でネットワークサービスもグラフィカルユーザインターフェイス主体のものが中心となりつつあった。このため、UMIN2システムのキャラクターベースのインターフェイスは次第に時代遅れと感じられるようになってきた。このため、サービスのWWWへの全面的な移行が計画され、実行に移された。移行作業は、最も技術的に困難の予想された電子メールとニュースシステムから行われた。これらのシステムでは、状態の保持が動作上不可欠であったが、WWWで利用されるHTTPでは状態の保存が仕様上不可能なため、別個のデーモンソフトウエアを介在させる等の高度な技術的な工夫がなされた。業務利用に耐えるWWWベースの電子メール、ニュース(UMIN3電子メール・ニュースシステム)は、世界的にもUMINが初めて開発したと考えている。このシステムには、通常の電子メールクライアントを利用する場合と比較して、大きなメリットがあることがわかってきた。まず利用者はIDとパスワードをいれるだけでブラウザーから利用が可能であり、事前の設定が不要なことである。これによって、1台の端末を複数の人で共有している状況での利用や出張先からの利用が非常に容易になった。
前年度稼動の文部省文書広報システムは、FAX画像が読みにくかったため、ワープロや表計算のファイルが手に入る場合(主として文部省作成の文書)は電子媒体のまま、紙の書類しか手に入らない場合には、UMIN事務局で紙から直接スキャナーに取り込んで提供することになった。文部省医学教育課の積極的な支援により次第に掲載される文書が増えていった。
9月より、患者票等収集システムの試験運用及び物品(医療材料)マスターシステムの運用が始まった。前者は、各大学病院が保健所に提出している患者票・従事者票のデータを毎月オンラインで収集するシステムで、このデータから毎月の平均在院日数、病床稼動率等の計算が可能であり、病院経営の評価に活用できる。オンラインのデータ収集で労力や入力ミスが減少した他、リアルタイムでのデータの各大学病院へのフィードバックも可能になった。試験運用において、各大学病院から利用可能なことが確認され、翌年度からの本格運用が決定された。 平成9年1月には、団体代表電子メールアドレス発行のサービスを開始した。
平成9年3月、開原成允が東京大学の定年退官に伴い、UMINの運営委員長を辞職した。

[平成9年度]
4月に櫻井恒太郎が新しく運営委員長に就任した。またUMINは、独立のドメイン名(umin.ac.jp)を取得した。ドメイン名取得にあたり、学内のUTnet運営委員会の承諾を得るのに苦労した。東京大学内に東京大学のドメイン名である"u-Tokyo.ac.jp"を使用しないドメインを置くことに対して、強硬に反対する委員がいたためである。このころから、利用者の増加によってマシンの負荷が高まり、レスポンスが非常に悪くなっていった。
5月にはUMIN専任教官の木内が助教授に昇任した。同月、ニュースを電子メールで読めるメールリンカーのサービスを開始した。これは、WWWを利用して、好きなニュースグループの購読を登録できるもので好評を博した。また運営の省力化のために、従来光磁気ディスクや磁気テープで配布していた薬剤添付文書データベースのデータのWWWによるオンラインダウンロードを開始した。以後は各大学病院に依頼して、できるだけオンラインに切り替えてもらうことになった。6月には、研究補助機関データベースの掲載を開始した。
新年度から患者票等収集システムの本格運用が始まった。5月7日付の大学病院指導室長名の事務連絡「病院報告及び患者紹介率の定期報告の変更について」によって、今後は患者票等のデータはすべてオンラインで収集を行い、紙やフロッピーベースでのデータ収集はしないということが通知された。患者票等収集システムでは、月毎の統計データが迅速に少ない労力で集計できることが立証された。文部省大臣官房会計課から要望で、同様なシステムで予算関係の資料を収集する予算資料収集システムが開発されることになり、11月から稼動を開始した。更に次年度の運用開始を目指して、大学病院概況収集システムの開発が開始された。また国立大学附属病院看護部長会議からの要請で、国立大学病院看護部実態調査システムの開発が開始された。
この年度の中頃から、文部省文書広報システムの利用件数が急増した。掲載文書数が増えたことと、重要な文書がオンラインでしか提供されないという事態が生じてきたためであった。
7月から、第62回日本循環器学会総会事務局と共同で、オンライン演題・抄録収集システムの運用を開始した。本システムは、CGI技術の特性をうまく利用して、汎用に他の学会でも利用可能なように設計された。演題・抄録の受付は、紙、フロッピー、オンラインの3通りで行われたが、比率は各々の1%以下、12%、88%で、オンライン分が圧倒的多数を占め、予想以上のオンライン登録率に驚きの声があがった。この成功を受けて、11月から医学系の学会を対象にオンライン演題登録業務を開始することに決定した。平成10年1月には、同学術集会抄録のフルテキスト検索システムの提供を開始した。このシステムもやはり同様に汎用に設計されており、様々な学会のフォーマットに対応可能であり、オンラインで収集された演題・抄録をそのまま収録して、検索に供することが可能であった。
8月に第3期システムの入札が行われ、日立製作所1社が応札し、落札した。UMINのシステムは、第2期システム(UMIN2)で作られたTELNETベースのシステムが利用者登録や管理目的に利用されているため、これらをWWWベースに変更する必要が生じ、リプレースを機会に全面的なWWWへの各種システムの移行がなされた。更新作業は10月に行われたが、主たるOSがSolarisからHP-UXに変更になったこともあり、一時的に障害が頻発した。
12月にM640を撤去し、8年間続いたN1のサービスを休止した。マシン停止の日には、UMIN設立当初に働いた日立のSEが駆けつけてなごりを惜しんだ。
N1が廃止されたため、N1接続にかかる技術的な問題の検討を行う必要がなくなった。その一方で、インターネットで利用されている技術を検討して、適切に取り入れていく必要が生まれた。このため、技術小委員会を改組して、大学の研究者主体のものとして新たに再発足させた。新生技術小委員長に事務局長の木内貴弘が就任し、第1回目の技術小委員会が平成10年3月に開催された。技術小委員会のホームページも開設された。
3月に保険医療業務研究協会より共同購入している各種マスターのオンライン配布が開始された。

[平成10年度]
4月UMIN3の電子メールがアタッチメントに対応した。また電子会議室の運用サービスが開始された。
平成10年6月2日付けの医学教育課長名での10高医32号「厚生省等からの通知文書の送付方法の変更について(通知)」によって、原則として厚生省から文部省経由で各大学に送付される文書はすべてUMINで提供されることが全国の国公私立の大学病院に通知された。
大学病院概況は、国立だけでなく公私立大学病院のデータ収集も行われているが、公私立分については、翌年度からの収集開始ということになり、国立大学病院のみで稼動が開始された。国立大学病院看護部実態調査システムの運用が開始された。更に定期的に収集しているデータのオンライン化を目指して、大学病院資料収集システム、経営管理指標収集システムの開発が開始された。
8月にビデオ・オン・デマンドシステム(VOD)の運用を開始した。また薬剤添付文書システムに検索機能がつけられて利便性が非常に増した。
9月にVisible Human Projectのミラーサイトを開設した。100GB以上に及ぶデータを蓄積する大きなFTPサイトであり、ミラーリングの設定やディスクの増設作業に労力を割かれた。12月には、医療用語検索システムの運用を開始され、平成11年1月には、国立大学病院2000年問題ホームページの開設が行われた。
この年度には、オンライン演題登録システムが3学会(日本体力医学会、日本救急医学会、日本循環器学会)で利用され、いずれも稼動は順調で好評を得た。

[平成11年度(本年度)]
6月に国立大学病院資料収集システム及び経営管理指標収集システムの運用が始まった。また大学病院概況データのオンライン収集を国立大学病院から公私立病院に拡大された。定期的に国立大学病院から収集されている統計データの収集・配布は、ほぼすべてオンライン化されたことになる。
この年度のオンライン演題登録システムの利用予定は、4月の段階で25学会と驚異的な伸びを示し、しかも一度使った学会はすべてリピータになるなど目覚しい成功を収めた。
インターネット普及当初に盛んであったUMINの役割や意義を疑問視する声は既に皆無になっていた。一方、かつて熱心に提供されていた個人・研究室レベルの医学・医療情報サービスのほとんどは廃れてしまった。インターネットが目新しいものでなくなった時点で、個人・研究室レベルでサービスを提供する動機が薄れてしまったのだと思われる。今日では、「見るに値する情報」を提供しているサイトの大部分は、「個人の努力や研究目的」で実現されたものではなく、「組織」が各々の必要性から予算を出したり、「組織」の業務として取り組んでいるものがほとんどになっている。
個人や研究室レベルのサービスとUMINのサービスの違いは、大きくわけて2つある。即ち、1)予算と定員に裏付けられた業務としてのサービスという性格、2)組織を背景とした人のネットワークが基礎にあるという点である。

1)業務としてのサービス
ネットワーク情報サービスを業務として運用している場合には、そうでない場合と比較して以下のような大きな違いがある。

(1) サービスの信頼性
業務としての運用では、十分信頼性の高いサーバ機がハードウエアとして使用されるべきであり、ソフトを含めた迅速な保守体制が必要である。
(2) 情報の保守・管理
業務としての運用では、提供する情報の更新・保守管理が必ず責任を持ってなされなければならない。提供する情報は、購入しても、作成・保守してもよいが、いずれにしてもコストを要する。
(3) サービスの継続性
単に継続して運用されてきたという実績だけではなく、今後もそうであるということの予算的な裏付けがなければ、業務システムとしては安心して利用できない。

上記の条件を満たすためには、信頼性の高いコンピュータ、最適な環境を提供するマシン室、専任の教職員・システムエンジニア、データベースの購入・開発保守経費が必要となる。また利用者登録や問い合わせへの対応等の業務にも人手がかかる。これには、ネットワーク情報サービス専用の定員と予算が必要である。サービス運用の形態は集中型が望ましく、分散型には無駄が多い。各大学にセンターを分散するとすると、各大学毎に人員が必要となり、コンピュータシステム及び関連設備もそれぞれに必要になってコストが非常に増大する。1大学当り100万円予算措置しても信頼性や継続性のある情報サービスはまったく期待できないばかりか、サービスの整合性や作業分担の調整は非常に困難であり、実際に何も機能しないであろう。年間100万の予算では何もできないが、センターに集約して4200万円(医学部を持つ国立大学は42大学ある)を利用すれば信頼性・継続性の高いサービスが提供できるのである。

2)人のネットワーク
業務としての情報サービスは、個人が「個人の希望や好み」で自由に行うものとは根本的に異なっており、組織の合意が必要である。公式な各種の委員会を通して、アイデアを出してもらうこと、そしてそれに対する合意を取りつけることが重要である。各専門分野で何が必要とされていて、どのようなシステムとして構築したらよいのかについては、その分野の専門家にしかわかりにくいので、こうした専門家の組織は非常に重要である。前項で述べた予算措置や定員は、組織の意思を尊重し、そのニーズを実現するために努めることの代償として与えられているものである。
UMINの本質は、「人のネットワーク」であり、これこそ10年かけてやっと作り上げてきたUMINの貴重な財産なのである。ネットワークインフラストラクチャーもコンピュータシステム及びその運用体制も、これに比べれば本質的とはいえない。薬剤小委員会を例にとって以下具体的に説明する。電子化薬剤添付文書の共同購入が薬剤小委員会で提案されて、実現し、現在も続いている。2年前から、UMINでは電子化薬剤添付文書をオンラインでダウンロードできるようにしているが、それ以前は磁気テープと光磁気ディスクのみによる配布であった。未だにこれらの磁気メディアによる配布は行われている。本質的に重要なことは、電子化薬剤添付文書の重要性や有用性が薬剤情報専門家の間で認識されており、これの共同購入が薬剤小委員会で提案され、議論の後に了承されたことにある。これによって、1)各大学病院が安く電子化薬剤添付文書を共同購入できるようになり、2)電子化薬剤添付文書を利用する習慣のない大学にも普及して、情報化の促進につながったのである。テープからオンラインダウンロードに移行していくことは媒体が変化しただけで本質的に重要な変化ではないのである。
インターネットというインフラストラクチャーにより、端末(パソコン)の設置や接続のためのコストが大幅に下がり、ユーザインターフェイスも洗練されたものが利用できるようになった。今や誰でも、10年前とは比較にならないほど安価な費用で、勤務先や自宅から簡単かつ安価にネットワークを利用することができる。しかし、情報を作成・保守すること、サービスの信頼性・継続性を維持すること、人のネットワークを構築・維持することの労力は今までと全く変わらない。むしろインフラストラクチャーに力を注ぐ必要がなくなった分、その重要度は相対的に増している。

執筆 木内貴弘(事務局長)

注記:この10年史は、関係者はじめ多くの人の記憶と、事務局に残された資料をもとに作成したものです。できるかぎり正確を期すよう努力したつもりですが、万一事実と異なる点があった場合にはご容赦ください。尚、お気づきの点があればUMIN事務局までご指摘くだされば幸いです。