記念講演 「UMINの設立と発展」

国立大蔵病院長
東京大学名誉教授
元運営委員長

開原 成允

1 はじめに

 私は学生時代から数えると、東京大学で30年余を過ごしたことになるが、その間を振り返ってみると、それは大学の情報化が進展していく過程でもあった。学生の頃にはじめて大型計算機センターが創設され、私もパンチカードに記されたプログラムによって計算機が計算してくれるのを胸をはずませながら眺めていた。昭和48年に病院にも大型コンピュータが設置され、実務の世界にもコンピュータが使われはじめた。やがて教育用計算機センターができて学生にも計算機が使いやすくなった。事務用計算機センターの設置、図書館の情報化、学内LANの稼動、スペースコラボレーションシステムの創設などによって、最近の大学には社会を一歩先んじた形で高度情報社会が形成されつつあるといってもよいであろう。
これらの情報化の進展に少なからず関与してきた私としては、情報化が大学にどう影響を与えたのかは大きな関心事である。中でも大学医療情報ネットワーク(University Medical Information Network 以下「UMIN」という)は、最初の構想の段階から携わってきたので愛着が深い。この意味で今回、その創設からの経緯を書く機会を与えられたことを大変嬉しく思う。
UMINは、決して最初から今のような形態のものではなかった。考え方の上でも大きな変遷がある。今の時代から振り返ると、最初のシステムは、コンピュータネットワークといえるようなものではなく今昔の感に耐えないが、その「あゆみ」は一つの歴史として記録に留めておいてもよいであろう。

2 ネットワークの構想

最初にネットワークの構想を持ったのは、大型計算機センターのネットワークに触発されたことが大きい。1970年代には、コンピュータをネットワークとしてつなぐことへの情熱が大学計算機関係者の間に満ちていた。この頃のコンピュータは、大型コンピュータ即ちメインフレームであり、おおがかりな接続のためのインターフェイスが必要であった。また、接続のためのプロトコールも標準的なものは存在せず、大型計算機センターが共同で開発した「N1プロトコール」と呼ばれる方式が標準的なものになると考えられていた。
大型計算機センターの一利用者であった私も、大型計算機センターが相互に接続できることを実感として味わってみたが、「tohoku」などと端末に打ち込むと東北大学の計算機センターに接続され大変感激したことを覚えている。尤も、他の計算機線センターを使うには、一々各大学のコンピュータセンターに書類で使用申請をしなければならず、これは大変面倒でもあった。
1986年、学術情報センターが設立され、学術情報ネットワークが稼動しはじめた。これも最初はN1プロトコールであったが、日本中の大学が最終的にはネットワークで結ばれて学術情報を交換できるという構想はすばらしいことであると思った。
その頃、病院の情報システムは、各病院に予算が与えられ急速に進展しつつあった。大学病院に病院情報システムが次々と設置され、実務の世界でコンピュータが稼動しはじめたのである。しかし、病院情報システムのその頃の方向性には私は多少不満であった。それは、病院情報システムが保険請求事務を取り扱う必要があったため、そのシステムを稼動させることが最優先とされ、事務的な作業を行うための病院情報システムという感が強かった。勿論、そのことが最初の目的の一つであったから、それはよいとしてもその先の展望が見えないことが心配だったのである。
大型計算機センターは、学術を目的として大学間の交流を深めている。病院のシステムは、ただ、毎日の料金の計算だけをやるというのでは大変もったいない話である。同じように、大型コンピュータを各大学病院が持っているのであるから、これを繋いで情報が交換できるようにすれば、医学・医療の進歩にとって測りしれない利益があるはずだと思った。
ただ、医療データを扱う難しさは、それが伝送の過程で、見られるべきでない人の目に触れてはならないし、病院の情報システムに不正な利用者が侵入しても困る点である。私は、大型計算機センターの浅野正一郎助教授(当時)を訪ね、学術情報システムで整備されたネットワークの幹線を使って病院のコンピュータを繋ぐことができるか、その際、病院のデータが他のデータと混ざらないようにすることができるかを尋ねた。浅野助教授の意見は、それには、学術情報ネットワークの中に閉域網を定義し、そこを医療データが流れるようにすればよいというものであった。
これに勇気を得て、私は、文部省に病院用大型計算機のネットワークを作る概算要求をすることにした。技術的には、まだ幼い概算要求であったと思うが、幸い文部省の理解を得て1986年(昭和61年度)には調査費が認められた。このため、その当時医療情報部ができていたところの教官を招いて調査委員会を作り、1987年(昭和62年)1月13日に第一回の「国立大学医療情報ネットワーク調査委員会」が開催された。まだ、手探りの状態であったが、大学病院間の横の連絡を密にしなければならないことは皆痛感していたので、これを是非作っていこうということになった。

3 第1期のシステム

次の年(昭和63年度)には、センターコンピュータの設置と接続のための費用がはじめて認められた。このため、上記の「調査委員会」を「準備委員会」に改組し、この委員会の監督下にセンターコンピュータの調達がはじまった。この時の仕様は、大型計算機センターのネットワークをモデルとし、病院に設置してある大型コンピュータ間をN1プロトコールで接続するというものであった。官報告示、技術審査を経て、1988年(昭和63年)7月11日に開札が行われ日立製作所に落札、HITAC M-640/30 がセンターコンピュータとして設置されることになった。これは、メインフレームコンピュータであり上記の仕様から当然の成り行きであった。ここに大学医療情報ネットワークが正式に発足をみることになったので、文部省と協議の上、9月には病院長会議常置委員長名で国立大学病院長にあてて「ネットワークの設置について」という文書が発送された。
発足をみたと言っても、最初は接続するだけでも大変な作業であった。まず、病院のコンピュータをUMINに接続するとどういう利点があるのかを知らせる必要がある。しかし、正直なところ最初は接続してもあまり利益はない。大型計算機センターや学術情報センターとは接続ができていたから、大型計算機センターを研究上の目的で使っている人には利点であった。しかし、まだ病院ではそのような人はわずかであったので、一般の医師が役にたつものがなければならない。このため、このシステムでMEDLINEが利用できるようにして、このMEDLINEが病棟からでも外来からでも使える、また電子メールが使えるということを利点として接続を勧誘した。文部省も非常に努力して、毎年3−5大学程度の接続のための予算を組んだので、接続大学病院は名目的には次第に増加していった。
最初の頃は、大橋靖雄助教授がこの担当であったので 大橋助教授は、日本中を旅行してネットワークの必要性を説いて歩いた。平成2年度には、大変嬉しいことに新しい助教授のポストがこのネットワーク担当として認められた。この仕事は全国の大学病院との折衝が重要になるので、私は身内から助教授を選考するのでなく全国的視野で探すべきであると思った。色々考慮した結果、京都大学で講師をしておられた櫻井恒太郎氏が識見、人柄ともに最適任と考えたので、高橋隆教授にお願いして割愛していただいた。高橋教授は、京都大学としては困るけれども、全国の医療情報の発展のためにと言って快く櫻井講師の転任に同意して下さった。
しかし、櫻井助教授が赴任したころはまだ8大学病院がN1接続でやっと接続された時代であったから、櫻井助教授の苦労がそれからはじまった。その仕事は、全国を行脚してUMINの意義を理解してもらい、同時に接続できたシステムの教育・啓蒙をするというものであったから、まさにセールスマンのようなもので、それを黙々とやり遂げた櫻井助教授には大変感謝している。
UMINの意義を説明して歩くと言っても、意義は言葉では分かるが実益はまだあまりなかった。その理由は、要するにソフトウェアがなかったからである。まだ、電子メールもほとんど普及していなかった時代であり、電話があるのになぜ電子メールが必要かということさえ議論の対象となっていた。しかし、海外との電子メールが役にたつことは確かであったので、そのメールが使えるようにしようということで、この頃海外の医学関係の研究者の間で比較的よく使われていた BITNET を使えるようにした。また、国内外のデータベースを使えるようにするため、当時医学情報を有料で提供することをはじめていた民間会社「AMS」と契約して、米国の医師会のネットワークと接続できるようにもした。しかし、この接続は課金の問題が絡んでいたから事務作業としては非常に複雑になり、その面からも普及はしなかった。
一方で、病院の接続は病院独自のデータを交換することが最大の目的のはずである。このためには、国立大学病院自らが情報を作って提供するようにならなければ意味がない。それには、それぞれの分野の専門家にネットワークの意味を理解してもらわなければならないということで、準備委員会が改組されてできた「ネットワーク運営委員会」の下に薬剤、検査、看護などの小委員会を儲け、その主導のもとにこのネットワークの有効利用を図ってもらうことにした。
小委員会の中で最も活発に活動したのは薬剤の委員会で、ここでは独自に様々なデータベースを作成し提供することを試みた。この時代には、それほど大きなものはできなかったが、この流れは現在も受け継がれており今では大きく実を結んだものもある。
一方で、毎年2ー3大学病院の接続予算が認められていったから、接続の大学病院数は増加していったし、また、利用者も増加していった。しかし、この時代の利用者がこのネットワークをどの程度必要不可欠なものとして認識していたかは、今だから正直に言えるがかなり疑わしいものであった。

4 第2期のシステム

コンピュータは4−5年たつと更新の時期を迎える。UMINのセンターコンピュータも1993年(平成5年)にこの更新の時期を迎えることになった。コンピュータネットワークの一般社会の考え方はそれまでに少しずつ変化していたから、私はUMINの構想もこれを機会に再検討しなければならないと思っていた。
一般社会のネットワークに対する考え方の変化とは、第一に米国を中心としてインターネットが普及しはじめているという情報である。この頃は、まだ学術情報センターも大型計算機センターもインターネットを正式に認知していないかのようであった。しかし、この問題は大変深刻で、接続のプロトコールとして「N1」を維持するのか、インターネットのプロトコールであるTCP/IPに切り替えるのかという問題でもある。また、当時はまだOSI(Open Systems Interconnection)が国際標準になるという意見もあり、国の機関としてそれをめざすべきであるという考え方もあった。
第二の変化は、病院情報システムの方にも現われはじめており、メインフレームではなく分散システムの方向へ行くという情報が、これも外国から入ってきた。しかし、日本で分散システムで病院情報システムを作ったところはまだなく、聖路加病院が分散システムをめざして大変な苦労をしたというような話しも伝わってきた。
これらの動向が、どうなるかまだ誰もわからなかったが、UMINに対する影響は非常に大きく、特にインターネットとの接続をめざすとすれば、これまで「閉域網」ということをいわば売り物にしてきたこのネットワークとの整合性が崩れてしまう。
丁度その頃私は、長年親しくしている米国の国立医学図書館長のリンドバーグ(D.A.B.Lindberg)を米国に訪ねる機会があった。リンドバーグは「Whole Internet」(Ed krol, Whole Internet, O'Reilly & Associates Inc. 1992)という本を読むことを私に勧め、これからの時代はインターネットが必ず普及するという意見を述べた。
私は、折角ここまできたUMINをどのような方向にもっていくべきかについて非常に迷い色々な人の意見を求めた。このころは大型計算機センターも学術情報センターもまだインターネットへの移行については積極的に推進してはいなかった。TCP/IPプロトコールによる接続は一般的ではなかったが、理学部などでは独自にこのプロトコールを既に利用していた。
色々な人に意見を求めたが参考になったのは若い研究者の意見であった。若い研究者は既にインターネットの普及する時代を予見しており、UMINの考え方を変えた方がよいという意見であった。私は、これらの意見を入れて、大型コンピュータ間の接続という考え方を捨てインターネットプロトコールのネットワークに各大学病院のコンピュータが接続するという形態にすることにした。この当時は、メーカ側もまだ大型計算機のN1によるプロトコールによる接続を提案してきていたので、仕様書はわれわれの手で大きく作り変える必要があった。
しかし、ここでの最大の問題は、これまで旗印にしてきた大学病院間の閉域網(今で言えばイントラネット)という考え方を維持することができなくなったことである。また、各大学病院がインターネットに接続するのであれば、そもそも大学病院のネットワークなどというものは存在しなくなり、情報資源を集中して持つ必要もなく、センターコンピュータは必要ないのではないかという意見が運営委員会などからでてきた。私は、閉域網に固執するよりは、インターネット上の情報資源を自由に利用できることの方が意義があると思った。また、センターコンピュータの意味は、情報資源を集中的に持つことではなく、情報を整理したり、ネットワークの維持管理のための事務局的な役割のために依然として必要であると思ったので、これらの意見はあったが、上記のシステムにすることに決心した。この時代にこのような形でサービスを開始したシステムは東京大学の中でも他になく、私は大変心配であった。
1993年(平成5年)7月に入札が行われ、新システムの開発がはじまった。これまでN1プロトコールで接続した大学が、ネットワークを使えなくなっては申し訳ないので、N1プロトコールによる接続も残し、N1接続でネットワークに入った利用者も、インターネット上の資源が使えるようにシステム上の工夫をした。これがUMIN1、UMIN2という名称であり、システムとしては大変複雑になってしまった。
1993年12月にはじめてIP接続によるUMINが稼動した。インターネットに接続できるようにしてみると、世界中の情報資源が瞬時にして入手できることになった。これは理屈ではわかっていたが実感してみて大変感激した。このころはまだWEBは生まれたばかりでその存在は本では知ることができたが、日本では入手できず、情報資源はもっぱら「GOPHER」と呼ばれるシステムで提供されていた。これは、画像は扱いにくく、文字が主なシステムであったが、それでも世界中の医学情報が手に入れられることで、UMINの価値は一挙に高まった。インターネットメールを利用できるようになったことも大きな利点で、各大学に一連のアドレスを割り振ったメールシステムを作ってサービスを開始した。

5 第2期システムの発展と第3期システム

1994年(平成6年)の5月には、はじめてUMINのWorld Wide Webによるホームページが開設された。最初はGopherによっていた情報サービスも、WWWが出現すると瞬時のうちにWWWが普及しはじめた。国立大学の関連部門の中でホームページを開設したのはUMINは非常に早く、この頃はまだどこもホームページは持っていなかった。しかし、一度使い始めて見るとその使い勝手のよさはこれまでのシステムとは比べ物にならなかったから、既にIP接続した大学病院への普及は急速に進んだ。
この年度のもう一つ特筆すべきことは、この年ですべての国立大学病院に接続予算が認められ、全国立大学病院がネットワークで結ばれたことである。1995年(平成7年)3月に実際の接続が終了したが、新しく接続するところはIP接続で接続していったから、この時点で41大学病院中の19大学病院がIP接続となっていた。
この時点でのUMINの課題は、N1からIP接続への移行をどのように円滑に行うかということと、閉域網でなくなった新しいUMINの存在意義を実際に示すことであった。
1996年、これまでUMINを支えた櫻井助教授が北海道大学へ教授となって栄転し、その後任に新進気鋭の木内貴弘講師を迎えたので、上記の課題は、その後木内講師の手で進められた。
第一のN1からIP接続への切り替えは、N1プロトコールの利用者に対しても、文字ベースでUMIN上の資源を利用できるような移行システムを開発することによってN1利用者の不利益をなくした。IP接続への切り替えは、病院情報システムの更新時を利用して行っていったので、時間はかかったがそれほど問題はなかった。しかし、閉域網でなくなったために、接続時に病院情報システム中の診療情報の安全性をどう確保するかが次の問題であった。この点は大江助教授の努力によって標準的なファイアウォールの仕様が提案され、これを介して病院情報システムをUMINに直接接続することも可能となった。東大病院もこれによって接続し、病院のすべての利用者からインターネットが診察室の端末で利用できるようになり大変好評であった。しかし、一部の大学病院は、その安全性に対してより慎重を期し、研究用のネットワークにUMINを接続したところもあった。
第二の課題である新しいUMINの存在意義については、その後の流れの中で次の三点に集約されてきたように思われる。
第一は、ネットワークの事務局としての機能である。事務局の機能というのは、ネットワークの維持運営と教育啓蒙である。UMINは、利用者登録による電子メールや登録者専用のサービスがあるから、そのための利用者管理は大きな作業になる。また、問い合わせや教育啓蒙、マニュアル作り、新しいシステムの開発、新しい技術への対応など事務局の果たす役割は非常に大きく、この機能の良否がネットワークの価値を大きく左右する。
第二は、旧来の閉域網で行われていたようなサービスの維持運営である。インターネットに接続して外部に開放されたと言っても、パスワードによって登録者のみが利用できる部分を作ることはできる。そのセキュリティは閉域網ほど完全ではないが、この上で更に工夫することにより、データの安全性を確保しつつ大学病院関係者のみが必要とするネットワークサービスを展開することができる。この際の情報資源としては、データベースもその一つであるが、それ以上に特定の利用者へ向けての通知を発送するシステムやデータを収集する機能を持つシステムなどがより大きな意義を持つ。現在、文部省からの通知や大学病院の統計類の編纂がこのシステムによって運営されている。
第三は、インターネット上に存在する外部の医療情報資源の仲介である。これは、リンクをはっておくことによって簡単に実現するが、このリンクをはるということには外部情報の評価という観点が必ず存在する。意義のあるものはリンクするが、疑わしい情報などはリンクしないのが通常であるからである。この機能を更に明確にするには、UMINとして外部の医療情報を評価して、その評価と共にリンクするようにすることである。現在、このようなことはまだUMINで行われているわけではないが、情報が氾濫してくる今後の社会にあってはこの評価機能は重要性を増してくる。これを行うことができるのは、国立大学病院の英知を背後に持つUMINのようなネットワークしかなく今後を期待したい。
今、UMINは、情報技術の進歩を反映しつつ、更に変貌しつつある。これは、その後、昇任した木内助教授の手で第3期のシステムとして実現した。これは、更に多くの機能を持つまさに21世紀のネットワークであるが、これはもう私の手を離れてからのことであるのでそれを述べる能力はない。
幸い、UMINは今日本の代表的な医療情報のネットワークとして自他ともに許すまでになった。初期の暗中模索の時代を過ごしてきたものとしては、その方向性が正しかったことが証明されたようで大変嬉しい限りである。方向を決めることが一番難しかったのは、IP接続への変更であった。もし、あの時点で大型コンピュータのネットワークという考え方に固執していたら、UMINは時代遅れのものになってしまったであろう。道を大きくは誤らなかったのは私の周辺にいた若い人々のお陰である。大学では、何を行うにしても常に時代の一歩先をみながら実行していかなければならないが、これはそれほど容易なことではない。今後も、UMINは変貌していくであろうが、常に新鮮な発想をもって日本のネットワークのあり方をリードしていくことを願っている。