4.3 情報倫理綱領 (1)医聖ヒポクラテースの宣誓は,おそらく史上最古の倫理綱領であるが,現在で もアメリカの医学生は卒業の際その宣誓を行う。日本では,つとに緒方洪庵がドイツ 人 C. W. Hufeland の医の倫理を抄訳して,「扶氏医戒之略」と題し,門人らに与え て戒めた。法曹も高等職業人(professionals,以下単に職業人)の典型として,早く より倫理要項をもつ。アメリカ法曹協会の弁護士倫理綱領と裁判官倫理綱領は模範的 だが,日本にも日本弁護士連合会「弁護士倫理」がある。 およそ職業人には高度な専門知識・技能の修得と,これを用するに当たっての高い 行動規範の遵守とが要求される。この点で専ら利を追求る手職人(handicraftsmen) や商売人(tradesmen)と区別される。専門知識・技能は高等専門教育や資格試験の問 題であり,行動規範は倫理綱領の問題である。 コンピュータ時代に入って登場した新しい型の情報関係者のうち,情報技術者は上 記の両資格要件を満たすべき職業人と考えられる。かれらのための倫理綱領の作成は 現下の急務である。以下既成の諸しょぎょう倫理綱領より具体例をとってその問題点 を検討しよう。 (2)アメリカ法曹協会の職業倫理綱領(Code of Professional Ethics)は個人の具 体的な職業倫理規範(canons/rules of professional ethics)の集成である。その具 体的内容は,日本弁護士連合会の「弁護士倫理」について見ると,一般規律(規範), 法定内,対官庁,対依頼者,対相手方その他の規律に分かれている。その一部は法規 範でもある。法は万人の守るべき行動規範だから,当然職業人も拘束される。 このうち日米の対依頼者規範が参考になるであろう。弁護士と依頼者,医師と患者 との関係は,商人と顧客との関係と大いに異なり,信頼関係(confidential relation) と呼ばれ,前者は後者に対し忠実義務(duty of loyality) を負い,その最善の利益 を図らなければならない。専門家としての優越的地位を濫用して,依頼者や患者の利 益に反するような合意をすれば,倫理違反として懲戒(後述)の理由となり,法にも 触れ,その合意を裁判上強行出来ないばかりか,罰せられる恐れもある。過大な報酬 もその一つで,対等の商人間なら問題にならないだろうが,職業人には許されない。 その守るべき行動規範は一段高いのである。 もっとも,弁護士報酬に関しては最近大きな変化が生じた。報酬はもともと honorarium で,依頼者が任意に払う礼金,寸志である。イギリスのバリスタの法服 の背中のポケットはそれを受けるものだった。今でも支払わない依頼者を訴えること は出来ない。しかし英米とも消費者保護の時代に入って,法律サービスの消費者たる 依頼者の利益のため,報酬の自由競争と広告とが解禁になった。これは,特価サービ スのTV広告をして懲戒されたある簡易法律事務所(legal clinics)のチェーンが, 連邦最高裁判所まで争って勝ちとった戦果である。 弁護士には,利害相反(conflict of interest) の禁といって,原告と被告との双 方代理は許されない。依頼者に対する忠実義務の当然の帰結である。(なお,アメリ カの広告代理業者はこの原則によって,同一業者一社しか代理しない。) 弁護士や医師は最善の処置をするため依頼者や患者から十分な情報を聞き出す必要 がある。秘密も含まれる。その代わり厳重な守秘義務を負い,外部者に対しては秘匿 特許といって,たとえ法定の証人となっても開示を拒否できる(本人の同意がない限 り)。 さて情報技術者について見よう。以上3つの義務のうち一番問題になるのは守秘義 務であろう。データ処理業者は,大学の入試データを処理しあるいは諸会社の経理事 務を代行し,会計記録を負うことは当然である。重大な個人情報を含むから勝手な開 示は倫理違反であり,法律違反でもある。 アメリカの大手データ処理業者には,経理データを用いて一定額以上の高額利得者 の address lables を作って direct mail用に売ったり,俸給や賃金の趨勢に関する 統計データを作成して経済雑誌などに売る。これはどうか,個人情報自体ではないか ら,法が介入しないとしても,情報技術者にふさわしくない行為であれば,顧客の明 示の同意なく行ってはならない,という倫理規範を定めることもできよう。 このように,(1)綱領は理想や目標の宣言にとどまらず,具体的で実践的な行為 規範を盛り,(2)それらの行為規範は裁判を伴い,一部は法規範と重複する,(3) 具体的で詳細だから,情報倫理綱領はぶもごとに異なることになる(アメリカの法曹 倫理綱領には,前述のように,弁護士のと裁判官の二通りがある)。 (3)法曹倫理綱領はアメリカの law schoolsの教科の一つとなっており,さらに臨 床法学教育(clinical legal education),すなわち実習コースにおいて具体的事件で 実践的に教えられる。弁護士資格を得るには,弁護士試験(bar examination)のほか に,弁護士倫理の試験にも合格しなければならない。それは単なる抽象的作文問題で はなく,具体的仮説問題でテストする。 (4)職業倫理綱領の実効の確保と,違反者,欠落者の処分はどうしているか。法規 範を重複している場合には,それが容易である。刑事法規違反なら刑事責任(刑罰) が,民事法規違反なら民事責任(損害賠償など)が裁判所によって課せられ,行政法 規違反なら行政処分が加えられ,その上に倫理規範により懲戒(後述)ができるから である。 法は服従の意志の有無を問わず実力で強制するが,倫理は元来良心の問題として自 発的服従を予定するから,実効の確保には世人の批判・非難による以外はない。 職業団体がある場合,違反者に注意・警告の上除名する。その団体に権威があれば, 除名は本人の社会的な信用の失墜として制裁になる。アメリカの一部の州法曹団体の ように,法律で加入が強制されていると,除名は資格剥奪という強い制裁になる。ま た権威ある団体が公表する評価も威力をもつ。アメリカの医師会はかつて medical schoolsの実態調査をして,合否の判定を発表した。その結果半分の不良校が潰れた。 法曹倫理綱領のうち理想や目標の宣言いがいついに法と同一の効力を有するに至っ た。日米ともそれに準拠して懲戒処分(譴責,停職,資格剥奪)が行われる。通常弁 護士会が行い,不服の者は裁判所へ上訴できる。第一次懲戒機関の構成員が弁護士だ けのためか,とかく処分が寛に失することなど,さまざまな問題がある。