「発想の転換が記録を伸ばす」

「発想の転換が記録を伸ばす」

 

東海大学

秋山 仁

 

 『スポーツと数学の共通点は何か?』と尋ねたら、おそらく多くの人が“何の共通点もない”と答えるだろう。だが、スポーツと数学には次のような共通点がある。第一に、小・中・高校生にとって、“デキルとカッコイイが、デキナイとカッコ悪い教科であり、デキル人間とデキナイ人間がハッキリと分かれる教科である”こと。第二に、“数学者がバリバリ良い定理を創り活発に業績を出す現役選手の期間は40歳まで”と言われるように、選手寿命が短いこと。一については説明は不要だろう。二に関しては、数学は知能だけの純粋勝負と一般には思われているようだが、それにもまして、数学研究には定理を創る際の集中力と持続へと体力が大きくものを言うのである。それゆえ、数学の分野のノーベル賞と言われるフィールズ賞の受賞対象年齢は、“40歳以下”という制限が設けられているほどだ。

 スポーツと数学にはこのような共通点があるのだが、日本国民の間では、理数離れが深刻と言われるほど進み、それに対し、スポーツ人口が年々増加しているという正反対な状況にある。その理由を考えると、見た目だけで人々に面白さや感動を伝えられるかどうかというエンターテイメント性の違いを差し引くにせよ、数学はスポーツに教育面で大きな遅れをとっていることが一番の原因のように思う。スポーツ競技であれ、数学研究であれ、『国際レベルの最先端で活躍できる人材を育成、輩出したい』といのが各分野の指導に携わる人間の大きな夢であることは間違いない。この夢にむけて、スポーツ特待生の制度を取り入れ、スポーツの分野では早くから、英才教育、早期教育の試みがなされてきた。その長年の試みに対して、“才能があると思える子供をチヤホヤして、競技に駆り立てているだけでは、結局その子供は、競技会のときだけの見せ物で終わってしまうに過ぎず(また、その子供が挫折した場合の特別な教育配慮の問題もあり)、競技の価値や振興を本質的に高めることにはつながらない”“多くの人々の関心を引きつけ、巻き込んでいくことこそが、本質的にその競技を活発化し、かつレベルアップさせることにつながる”という答えを、スポーツの分野では既に出し、ほんの一部の人間だけを相手にする英才教育とはまた別の新たな“スポーツの大衆化”にも挑んでいる。その成功ゆえ、現在の日本国民の間へのスポーツの浸透と発展を生んでいるように思う。これに対し、数学教育の現場では、“ワカラナイ・ツマラナイ・役ニ立タナイ”と訴え、数学を嫌う生徒が小・中・高でそれぞれ3割、5割、7割だという現状にもかかわらず、こういう生徒たちは切り捨ててかまわないからごく一部の間だけを相手にしていこうという対策しかとっていない。これでは、この先、益々数学の分野の活動が先細りすることは目に見えている。

 人間の限界への挑戦を見せてくれた、トップ・アスリートたちの長野冬季オリンピック大会は、我々一般人に多くの感動や喜びを与えスポーツの素晴らしさを実感させてくれた。だが、それ以上に、その後に続いて行われたパラリンピック大会は、スポーツというものが、才能と環境に恵まれた一部のトップ・アスリートたちのためだけでなく、それ以外の多くのあらゆる人々の挑戦心をかき立て、夢と希望を与える、人類にとって無限の可能性をもった素晴らしいものだということを我々に実証してくれたように思った。

 数学は、現在のところでは、“難しい問題を解く”という、いわば、トップ・アスリートの競技的な種目しか行われていないが、“不思議を発見する楽しさを味わう”、“日常生活で役立つ数学を応用した器具を製作し、数学の意義を楽しむ”“あらゆる分野で限界を突き破る際に必要な、発想の転換術を学び伸ばす”などの新たな種目も行える教科だと私は考えている。種目を多様化し、多くの人々の挑戦心をかき立て、夢と希望を抱かせることができるよう、数学教育の大衆化を目指すことが、数学界を活性化する。これが、数学教育より先を行くスポーツ教育から得た教訓である。

 本講演では特に、スポーツの記録を塗り変えた際に行われてきた数々の発想の転換や工夫を例にとりあげながら、柔軟な発想を生む“体力づくり”ならぬ“頭力づくり”の数学教育の在り方について論じたい。



プログラムのページに戻る
大会ホームページへ