心停止後に蘇生救命された患者は、最初に呼吸ができなくなったことを憶えていた。
サリンの効果は何よりもまず、呼吸を止めることに
あるらしい。サリンによる症状は表1にあるとおりだが、ほぼ全例にみられた最も
特徴的な症状は縮瞳である。これは中枢性ではなく末梢性であろう。心肺停止し、
担当医が死亡宣告した際も縮瞳は持続していた。脳死に近い例でも数日持続し、
その後は3-4mm大となり、対光反射がない状態となっている。軽症例でも1-2
週持続することもある。当日も資料より症状の増悪は数時間後からはないと判断
していたが、一応全身症状が少しでもある110名は入院とした。
今回の症状の大体の傾向を内科レジデント鈴木がまとめたものを表2に示す。
縮瞳はつづいているが呼吸器等の症状は減り、精神症状が少し増している。
これからは心理面の考慮が大切と思われる。徐脈は動物実験や理論的のうえで
はおこりうるが実際はストレスなどにより、特に意識のある患者は頻脈をしめす。
暴露から、症状発現までの時間差は、侵入経路が、気道吸入・経口摂取・経皮
吸収などの差によると思われる。分泌亢進は、サリンでは他の有機リン系農薬中毒と
比べて軽度であった。激しい肺水腫の例もなかった。臨床症状を軽症から重症に
ならべると以下のようになる。
一日後以降からは少なくとも身体的症状の増悪はなかった。これは、教科書で述
べられているようにヒトでの神経ガスによるintermediate syndrome(数日後に神
経症状が現れ、重い場合は一時的に呼吸麻痺をきたすこともある。)の報告はまだ
ないことに一致する。
また、気管支喘息などの他の疾患がサリンにより誘発増悪した例もあった。
治療とくに薬物治療
全身症状が強いものや入院例の多くにPAMやアトロピンが使用された。PAMを用い
ると症状の改善がはやまるとの印象があるが、軽い例には必ずしも用いなくよい
ようである。軽症例には総量は1.0gから多い例は7g程度使用された。最初30分
以上かけて点滴静注し、その後も症状により、数時間に1gあるいは持続で1g/2hr
使用した例もある。ソマンやタブンでは神経ガスとコリンエステラーゼの結合
が強かったり、非可逆性だったりする事が報告され、PAM自体にも呼吸抑制の
副作用があることや、血液脳関門を通らないこともあり、本来は重症例に早い時
期のみの投与が望ましいようである。
今回の印象は軽い例が多いためか自覚症状(呼吸困難感など)には有効であったが、
バイタルサインについてははっきりとした効果はなかったというところである。
縮瞳については無効であった。アトロピンも縮瞳・徐脈・気道分泌亢進などに対して試みた。
0.5mg-6mg程度用いたが縮瞳については副作用ばかりで効果はなく、点眼剤が有効で
あった。しかし、重症例で中枢神経症状のあるものについては、第一選択になる薬で
ある。一般に用量が4mgを超えると指南力の低下がおこるとされているが、中毒のひ
どい時には、アトロピンと同様の効果があるスコポラミンによる知的機能の改善が報告されている。
別項で述べるが、汚染された衣服や皮膚・粘膜の処理は、患者自身のこれ以上の毒物
吸収や治療者の安全確保の上でも重要である。
これからの課題
今回の被害者の身体的な短期的予後は、死あるいは低酸素脳症か完全回復かにわ
かれると今の所考えられる。過去の文献にあるような長期持続する認知能力の低
下や、激しい精神障害は今の所みられなかった。しかし長期的には心的外傷後縦
攴障害のような後遺症がどの程度に現れるか注意深く経過観察していく必要があ
る。すでに数例本院精神科で経過観察しているときく。また、とくに神経系を中
心に、サリンの毒性あるいは低酸素による器質的な後遺症がどの程度あるのかも注目
していくべきである。
まとめ
サリン中毒の診断のポイントは縮瞳であり、治療のポイントは呼吸の確保につきる。
サリンの急性の効果はせいぜい数時間であり、その時間の厳重な監視が大切だが、
軽症例は対症的でよい。眼の症状だけであれば、放置か、点眼薬でよい。
(眼科の項参照)
他の有機リン中毒との比較して、呼吸麻痺以外の症状は軽く、効果は一相性で持続は
短く、増悪はない。
今後の課題は身体的な後遺症が本当にないか、心的外傷後ストレス障害などの心理的影
響がどのように現れるかである。