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UMINを死守せよ!

宮崎大学医学部附属病院副病院長
元東京大学医学部附属病院総務課長
北村 信


 私が東大病院の総務課長として勤務していた平成14年、時はすでに国立大学の法人化に向けた対応で風雲急を告げる状況にあった。法人化後の様々な組織や仕組みをどうするのか、その在り方が問われていた。
 そしてその在り方を問われる組織の一つとしてUMINも俎上に挙げられていた。
 時のUMINの利用状況は、利用登録者数こそ14万人と増加していたが、アクセス件数は5百万件(ページビュー)を超えて横這いであった。
 法人化へ向けての検討で一番議論となったのは、法人化後このネットワークを従来通り医療に限定したものとして保持して行くのか、また、その管理を病院部門が継続して行くのかと言うことであった。
 当時のUMINは、東大病院に院内措置の病院医療情報ネットワークセンターが設置されたばかりであり、全国利用施設として早々に認可されるとも思えない状況であった。
 東大病院では、平成15年度概算としてセンターの設置を要求していたが、その在り方自体が争点になるとは、思いもよらぬことであった。
 争点の課題である医療に限定したネットワークの是非については、その将来像が描けるかどうかに懸かっていた。それは木内教授の頭の中の青写真を如何にプリントアウトするかであり、精緻さとスピードが要求されるものであった。
 今我々が目にしているUMINのアクセス件数は、実に当時の7倍の3千5百万件を超え、利用登録者は2倍の27万人となっている。これらの数値実績に加えて、学術集会演題登録システムやインターネット医学研究データセンターの充実による研究サポート、EPOCやDebutの導入による教育サポートと医学部・附属病院のみならず全国の医療関係者の最も重要で利用し易い情報インフラストラクチャーとして成長をし続けている。
 この現状こそがまさに当時としての将来像であった。
 その将来像を木内教授は、文科省の担当者に鮮やかに描いて見せた。
 それは、真っさらの白紙の上に、一瞬の内に3Dの高層ビルが乱立する大都会が出現したような驚きであった。
 何かを議論する間もなく一つ目の課題はクリアされた。

 もう一つの課題は、その管理主体である。
 法人化後を考えると確かに情報部門の一本化と言う発想も有って当然であり、また資金的なことを考えても、法人本体に近いところに置いた方が有利ではないかとの意見も正論であった。
 ただ、UMINをその様な環境に置いた時、一番懸念されたのは他のシステムの狭間で埋没してしまうのではと言うことであった。医療の現場に置いてこそUMINは、その独自性、有効性、機能性をフルに発揮できることは、誰しもが考えることであるが、議論の中では必ずしも決定的な要件とはなり得なかったのである。
 今思えばこの時がUMIN最大の危機であった。
 決定的な要件を持たない議論の中にあって、その命運は、東大病院と文科省医学教育課病院指導室の方針の一致にかかっていた。
 病院指導室は、その職責上UMINを病院以外の部署に移管することには否定的であったが、決定的な要件を見いだせない状況の中で、ただいたずらに時だけが過ぎていった。
 そして最終期限間近のある日、思わぬ形での決断がなされた。
 時の病院指導室のT氏とM氏(両氏は大学法人の現職ゆえ、敢えて仮称とさせていただいた)、何かの打ち合わせが終わり、3人で一服することになった。
 その頃は、当然旧文科省の建物で、中庭に喫煙コーナーが設けてあった。
 灰皿スタンドの前で煙草を燻らしながらT氏が言った。
 勿論UMINのことである。
 “あの線で行きますか。”
 口調は穏やかではあったが、並々ならぬ決意が込められていた。
 M氏“あれしか無いでしょう。”
 真顔の返答が、事の大きさを示していた。 
 私“その線でお願いします。”
 もう久しく議論された課題である。誰もそれ以上のことは言わず、頷き合った。
 UMINは病院で堅持する、その方向性が示された瞬間である。
 その後、省内外でどの様な折衝が行われたのか私は知らない。その困難さは微塵も漏れてこなかったが、容易に推測できることであった。
 平成14年の年末、大学病院医療情報ネットワーク研究センター設置の内示が東大病院に届いた。
 私がこの時のことを忘れられないのは、事の大きさに対してその決断の鮮やかさと中庭
 の喫煙所と言う情景が、あまりにもかけ離れたものであり、まるで映画の1シーンでもあるかのように、思い起こされるからなのかも知れない。

 今回のUMIN 20周年記念誌への寄稿依頼を受けた時、即座にこの時のことを書こうと思ったのは、各々のエピソードの秀逸さもあるが、UMINの20年の歴史において、逆風の中、限りない夢を描ききった男たちが居た事実を、どこかに留めておいて欲しかったからである。